つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

この上ないもの

2013-09-19 | Weblog
般若心経を心得ると安心を得る。
守護神である。無上甚深微妙法である。
金剛力士に守られているが如く。
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同音異義

2013-09-18 | Weblog
究めて、一を一と見た。
究めずにして、一を一と見た。

同じ一を一と見たが、
究めた者は、一が二であり三ともなって限りなく連なり、
ゼロともなった。
究めない者は、一はただ一であった。
ゼロとなることも無く、二となることも無かった。

単純にして難解を知り、
難解で単純を知った。

昨日の私と今日の私、
今日の私と明日の私、
昨日の私と明日の私を今日の私は知った。

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喜捨

2013-09-16 | Weblog
自分に言い聞かせる。
一日一善。
何か善いことをせよと。
小さいことでいいから、
善いことを施与
喜んで施与
貧しい心を豊かに施与
汚れてきたない醜い心をただ綺麗に施与
みがけば綺麗になるのが道理。一生涯みがく。
何でもよいことはすぐに施与
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お互いに

2013-09-15 | Weblog
私たちは共存で生きている。
単独で存在しているものでは無い為に、互いに協調性が必要となっている。
生きていく、生きていかねばならないという目標である。
生きとし生けるもの皆同じである。

あらゆる生命は法によって作られたものであるために、すべてが法の支配下にある。
法に逆らって生きていくことはできない。その法には、善いとか悪いとかという人間が考えるような善悪は無い。
ただ円運動という質をもって廻り行くものであるために、少しも変わらないものとなっている。
廻り行くという変化が時間と空間を作っているもので、変化の無いところには時間も空間も存在しない。
法が少しも変わらないものであるために、法には時間も空間も存在しない。
廻り行く変化の中で、それは進化となって移り変わっていくが、円運動であるために、その変化、進化も過程の中においてであって、
たどり着くのはゼロとなっている。それを浄化という
不生不滅、不垢不浄、不増不減、何も変わらないものである。ただそこに漫然と「ある」というもの、
それがエネルギーである。エネルギーの法則である。これが宇宙である。
熱量をもって回転、高速となり
膨張、して収縮、のみ込まれ吐き出されてを繰り返す。廻るのである。時間と空間が生じ、ゼロの容となっている。
その容を、うつろで中が膨らんでいるものという。
だから、私たちは、うつろな虚ろな空ろな中でのある物語である。そこから抜け出していくことはできない。
なぜなら、法によって作られているからである。法を超えてしまうことはできないのである。たとえて、
超えてしまったとしたら、存在とならなくなるためである。

移り行く悠久の時の中で、ほんの一時の物語であれど、エネルギーの謎解きをして、ほとんど未知の秘密を探る。
廻り行く時の中で、時は流れてもなく、人がそう感じているだけであると、ただ漫然とあることを知る。

人間の科学より千年も万年も進んだ技術を持つ知的生命体は、
争えば、いや、争いにもならないほどの技術があるために、侵略するのはいとも簡単だろう。
人類が誕生してから、それが守られている?のは、知能が優れるものは一様に平和主義者であることが知れる。
人が、国土をめぐって侵略をしていった歴史をみれば、進化の過程において他の生命体もまた同じである。が、
知的になればなるほど法を知り、皆共に生きているという共存共栄を理解、協調性に富んでいく。
まだ見ぬもの、見えぬものだからと言って意に遭わないと思ってはならない。それぞれ一長一短あれど、それは、接し方による。
きたないもの?きれいなもの?があるのも、どちらも長短所となるものである。なぜあるのか?を思い、
どう接するか、どう活かすかである。単に排除では道理に反する。それは野蛮な行為で、野蛮な行為は必ず自分に不利に返ってくるものである。
知能はそれを知り、共存を理解する。
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天才

2013-09-14 | Weblog
道理に学び創始者となる。
だから、師が自然である。
誰からという人に教わったものではない。
経験から窮めて奥義に達する。
自然には秘密があるものだ。
その秘密を知るのは、自ら携わった経験、試行錯誤で得たコツ、智恵とでも言おうか、
その智の恵みは自分だけにしか判断できない。
人に教えて伝えられるものではなく、ただ曖昧に授けられるだけ。曖昧を正しく理解するのは、
その人の能力。だから、コツは人それぞれに違い味がある。その味の違いは優劣ではなく資質。
資質は、魂の長い長い繋がりにより、どう分類統一したかの差になる。
是をみて、何をどう繰り返したか、して、それが浄化となっていることに気が付いたかである。
もし、これらに正しく気が付いていったものには、心が素直に反応して、随意筋のように的確に動く。
意識に判断できないものが無くなるのである。
自分(肉体)というものが、どうしてそうなのかということは思わなくとも理解できるのであり、肉体がそう動くのである。

人というのも自然の産物である。だから、法則そのものを本来持っている。
その秘密を探り当てて、考えるという人知では計り知れない能力を持っている。
法の示し申すという力となれるものである。
ある道に通ずる天才である。
東西南北それぞれに守護する神がいるように、して、その頂点に如来がいるように、
究めて窮めて極めて、人もまた神となれるものである。釈迦のように。

卓越した能力があったわけではない。悠久の時を経て、生きてきた魂(生命)の向上によって
是を知り、知恵を得て身に付け、その質、法の質と適ったものである。だから、
誰でも成れるものであると菩薩は説いている。
釈迦の時代には知らなかったために、釈迦の説いた修業を行じ無いものにはけっして悟りが開けないものであるとして、
修行法が説かれていった。それには、
強靭な肉体と精神を宿せないものには無縁であった。が、
釈迦の弟子として修行し、観音と呼ばれるようになった人が、死後、その世界から、
同じく修行している僧に、修行が縁となって現れ、法則が語られ説明された。それは、
一切の苦行難行をせずとも、また、信仰がなくとも、人は悟れるものであることを訓えたものである。
それが、般若心経である。観自在菩薩の啓示である。死後の世界というのは、法則の絶対世界である。
その世界からの語りであるために、真実嘘の無いものとなっている。
ただ、読み誤るとまったくの効力を成さないものとなるために、
くれぐれも正しく読み解いて下さることを願って、序文として開経偈が説かれているものである。
それは、心経の文字に惑わされないようにということであり、心のあり方によると説かれている。
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教訓

2013-09-13 | Weblog
全知全能。
神通力。
完全な知恵を持ち、何でも知っていて、何でも出来る。
何ものにも妨げられることの無い、不思議な力を有している。
その能力、瞬時に示し申して、あらゆるものに通じる。
仏菩薩、観音力である。
それは、観音と呼ばれるようになった人の死後の世界の力。
観音と呼ばれるようになった人であるために、人であれば誰でも身につけられる力である。
知恵を具えることによってつく力である。
不思議な力であるために、即断となって瞬時に思うが儘にかなえられる。
それを訓えるのが般若心経。
心の能力である。智慧である。それをみがくとして、摩訶般若となっている。
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事情

2013-09-12 | Weblog
政に治める人たちは、政に治めることができず、
ただ金の力に頼ろうとするだけで、自分の贅沢を正そうともせずに、
取りやすい方法だけを模索する。
税金とは、政に治める人たちの贅沢をするための金、贅金と皮肉った。

年収二百万弱、或はそこそこの、それでも仕事となれば完璧さを求められ、きつさに似合わない、
何の保証も無い立場で働く人の生活。そんな人の生活事情なんか微塵も思えない、政に治める人たちの生活は無駄ばかり。
平等という言葉で一律に考え付くことは、非情なものである。
彼らに、時給八百円弱の仕事、生活は軽蔑に値するものなのだろう。
でも、社会はそこで働く人が大勢となってきている。
人を道具として扱う社会はここかしこ歪むだけである。

政に治める人たちの生活水準は下げることなく、さておいて、
金が無いやりくり千万の人達に、更に更に金を貢げと虐げる。
暴動を起こす気力も無い民は、ただ衰退減退して減少、絶滅危惧種と兆される。
産むに産めない事情が重なり、死に逝く人が後を絶たなくて・・そんな国の未来?

悔しかったら偉くなれ!とは、・ははぁん、情け無い。
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自然的

2013-09-11 | Weblog
いけないことをしている人は、いけないことによって
いけない目に遭う。あえて制裁を加えなくともよい。自然と制裁が与えられるのであるから。
それは、必然である。

ずるいとかずるくないとかで争う必要はない。
ずるをすればのちのちずるをされる。これが是である。
悪は悪によって滅ぶものであるから。
敢えて制裁をすれば、同じ穴の狢となってしまうもので、
裁くというのは自然だけである。
人が、どんなに客観的にものを観ようとしてもできない。
それが主観となるからである。
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誤解

2013-09-10 | Weblog
昨日、今日、明日、そうやって時は過ぎ去って、事実私は老いる。
時は語る、「私はただ前に前にと流れているのでもない。
かといって、止まっているのでもない。あなたが、進んでいると思う思い違い。流れてもいないし、
流れてないわけでもない。漫然とあるだけで。
あなたが、ただ前へ進んでいると錯覚するだけである。」

是は廻り、
不生不滅、不垢不浄、不増不減であるからで、少しも変わらないものであるから。して、
脳は騙されやすく、心で制御して正しく見えてくるものである。
本当は・・・。
科学は進んで、やがて真実に近づくが、
もしかして、本当は…という真実を過程に於いて見るだけである。
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急がば回れ

2013-09-09 | Weblog
どんなに注意していてもミスをする。
人というのは、完璧な人というのはいない。
どこか一方に優れていても、一方劣るところがある。
二方三方に優れていても、一方劣るところがある。
だから、少しでも優れているなどと驕ってはならない。
常に慎ましくあって慎ましくあって、
一方劣るところが補われる。
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