祈る行為は依存の行為。依存は自由を奪われる。
祈る姿をみれば、ただじっとしている。つまり、動かない姿。
私達は動く物として生きている。だから、動物と書く。
動かないでじっとしていることはできない。そのため内蔵の動きが止まる事は無い。止まれば死となっている。死ねば人間ではなくなる。ただの肉の塊、やがて腐って悪臭を放ちながら朽ちていく。大地に還る。魂は天に上る。
天国に赴くが、肉体を生命と考えていれば、地に赴く。思いの違いによって、
天国と地獄となっている。
思い違いは行為にも現れている。祈って願いが叶うなら苦労は要らない。
あれこれ思いに沿って動いてこそ、願いに近づき叶う。動かずして叶う辻と褄は無い。辻褄合わせは、人の身勝手。身勝手に好い事は無い。
だから、祈る行為は悪魔の行為。願い事があるなら、祈らずそれに向かって動くことである。それが真実である。この世は嘘で固めた世界。だから、
誕生の「誕」の文字の意味は、「でたらめ」「うそ」として、
「虚誕」「妄誕」「荒誕」と書かれる。
私達はこうして嘘に学び、洗脳されている。そして、この嘘の世界に生まれたことの悔しさ有難さに驚愕して、「おギャー」と泣き叫ぶ。誕生である。
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