唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (12) 分別倶生門 (11)

2014-07-03 22:09:08 | 心の構造について

 分別起の我見と倶生起の我見という、表面に現れている我見とですね、つまり第六意識相応の我見の底に第七末那識相応の我見が潜んでいる。この我見が「一切の見趣の所依」であると説明されてありました。すべてのものの見方が、我中心の見方になっているわけです。我中心ということは、阿頼耶識の現行である所の、見相二分ですが、見相二分を以て阿頼耶識を表現しているわけです。転識である第七末那識との関係では、阿頼耶識の見分を本質(疎所縁)として、第七末那識の相分上に影像を変現し、これを親所縁として我と執着することを起こしてくるわけです。

 阿頼耶識の種々相は「恒転如暴流」なんです、無常なのですが、無常を執し、常であると執し続けて生きていると云われていますね。つまり、「実に外境は無くして、唯だ内識のみ有りて外境に似て生ずるということを」。外境は識の所変現であって、この識の所変現のみが所縁となり得ると説かれているのです。

 分別起の我見でいいますと、「自己中心で生きているな」と自分の心を見ことはできますが、この見ている心は影像であるということになるんですね。ですから、「これでは駄目だな。こういう自分の心を知らしめる為にご苦労があるんだな」と思っても、思う心が我見として教えられているのですね。何か自分で自分の心を見ているような気持ちになってしまうのですが、実は、そうではなかったんです。直接自分の心を見ているのではなく、自分の心に映じられたものを、識そのものは、その映じられたものを相分として見ているのです。「自己中心で生きているな」と思ったことは間違いのないことですが、この思いを本質として、もう一度解釈をし直す。ここが倶生起の厄介なところになりますね。解釈をし直す、ということが計度分別(ケタクフンベツ)といわれています。解釈をし直すと、どうなるのかですが、外境有りと執するのですね、この執はもともとはないものなんです、何故、執が起こるのかは、無いものを有るとするところに執は必然するのですね。

 唯識は、「(外境は)実に皆無し」と宗を挙げ、真実は、識の所変現でしかないことを明らかにしたのです。

 面白いですね。執着はもともと存在しないもの。でも自分に執われ、自分のものとして執を起こしているのが現存在でしょう。現存在そのものが道理に反したものとして生きているということなんですね、これを邪見として押さえられているのですね。邪見は分別起ですが、邪見の底に我見が潜んでいるということなんです。

 しかしですね、倶生起の我見は無覆無記だと教えられていることは、正見と我見は不即不離であることを示しているんでしょうね。

 「摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、
 貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。」(『正信偈』)

 「貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。」と、有覆であるけれども、「摂取の心光、常に照護したまう。」と教えられていますね。破闇満願なんだけれども、煩悩に覆われていることが見えたのが真実信心の内景ではないでしょうか。『正信偈』は先ず本質を出しています。すでにして道有り、と。救済の道理は完成していることを先ず述べて、真実信心を覆っているのが影像であるところの煩悩である、と。ここの説き方は倶生起について述べられている所だと思います。もう一つは、行間にですね。煩悩を本質として、第七識の相分上に影像を映じ、これを親所縁として見ているということが説かれているように思います。我は無いんですね。「諸法無我・諸行無常」であると云われ、「仏教は無我にて候」といわれているでしょう。本来ですね、無いものを所縁とすることは出来ないのですね。ただ、内識の所変現を所縁としているわけですが、「自の妄情に随って」計度分別を起こしているに過ぎないのだ、と。親鸞聖人は深いところの我見を見よ、と教えて下さっているように思います。

 昨夜は獅子吼の会の法話を聴聞しにいっておりました。その後、だいぶはっちゃけていました。FBに写真を投稿しましたが現実に戻って真面目に学びを続けたいと思います。

 明日は坊主バースタッフですので休載します。

 また日・月は聞光洞一泊研修会の為休載します。ご了承ください。