答。
「貪は瞋と疑とは定んで倶起せず。」(『論』第六・十六左)
貪は瞋と疑とは倶起(相応)しない。
本科段より 「此十煩悩誰幾相応」 の問いに答えてきます。この科段が六に分けられて説明されます。
- 貪と他の煩悩との相応について、
- 瞋と他の煩悩との相応について、
- 慢と他の煩悩との相応について、
- 疑と他の煩悩との相応について、
- (五)見同士の相応について、
- 癡と他の煩悩との相応について、
(1)が二つに分けられます。
貪と瞋、貪と疑の相応について説かれる。
貪と他の煩悩との相応について、 く
貪と慢、貪と見の相応について説かれる。
本科段は、貪は瞋、疑と相応しないことを説明し、後に相応しない根拠を挙げて説明されます。
「問。何を以て、貪と瞋と倶起することを得ざるや」(『述記』)
先ず、癡は九種の煩悩と相応する為に、その他の煩悩からは除外されています。その為に、貪・瞋・慢・疑・見それぞれの自類相応の中、癡との相応については言及されてきません。
「此れは初なり。対法の第六、大論五十五と五十八とは説文同じ」(『述記』)
貪が瞋・疑と相応しないことについては、『雑集論』(巻第六。大正31・723a)、『瑜伽論』(巻第五十五。大正30・603a及び五十八。大正30・622a)にも同じことが説かれていると『述記』は述べています。
その理由について
「愛と憎と二の境は必ず同に不ざるが故に。」(『論』第六・十六左)
貪が瞋と相応しないのは、ちょっと説明になりますが、(二)は貪と瞋を指します)貪の境(対象)は「愛」であり、瞋の境は「憎」であることを意味します。従って、貪の対象と瞋の対象は同じものではないところから相応しないというわけです。
「問何以貪・瞋不得倶起 論。愛憎二境必不同故 述曰。染・憎不倶。境既不同。行相亦別。以相違故 若爾貪倶憂・苦相返。瞋倶樂・喜爲例亦爾。何得相應。愛・迫二境得倶起故。行相不違故無此失。如下當知。」(『述記』第六末・三十二左。大正43・450a)
(「述して曰く。染と憎とは倶ならず。境既に同じからず。行相亦別なり。相違するをもっての故に。若し爾らば貪と倶なる憂苦は相返せり。瞋と倶なる楽喜も例となるに亦爾なり。何ぞ相応することを得る。愛と迫と二の境倶起することを得るが故なり。行相違せざるが故に、此の失なし。當に下の如く知るべし。」)
貪と瞋の対象は一致しないということなのですが、貪は貪りですが、愛染するものであり、瞋は憎と押さえられています。憎恚と愛染とは自ずからその対象は違うわけですから、貪が瞋と相応しないことを説明しているのですね。
憎恚(ゾウイ) - にくしみいかること。「瞋は憎恚を以て性と為す」
愛染(アイゼン) - 物や人に対する愛着。阿頼耶識は執蔵と云う意味を以て、愛着処といわれるところです。
ここではこのように押さえられていますが、癡が相応してきますと、愛染が憎悪にかわることが起ってきます。愛別離苦といわれる極限状況では、可愛さ余って憎さ百倍というでしょう。これが根本の我癡ですね。