唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (25) 自類相応門 (11) 

2014-07-29 22:39:13 | 心の構造について

 『述記』の所論をみますと、「此は倶生分別に通ず」と述べられていますが、『演秘』を紐解きますと、倶生起と分別起の薩迦耶見と常見がすべて瞋と倶起すると説かれているのではないと述べています。

 瞋はただ不善であるが、薩迦耶見と辺執見の二見は、ただ有覆無記であることは後述されます(『論』第六・二十右)。欲界に於ては、薩迦耶見と辺執見の二見はの不善はただ分別起のみであり、倶生起は有覆無記なのです。なお、色界及び無色界に於ては、ただ有覆無記である。このことから推し量りますと、楽がある五蘊を縁じる場合は、瞋と倶起しませんから倶生分別に通じるといえますが、苦がある五蘊を縁じる場合には、瞋と倶起しますから、ただ分別起のものであるといえるようです。

 「論。此與三見或得相應等者。有義分別身・邊二見而與嗔倶。由倶生者唯無記性嗔唯不善故非彼倶。論云苦蘊但於善趣有苦受倶名有苦蘊。疏説苦處又通二見。此定不然 詳曰。乍觀疏文誠如所存。細尋其理理即無違 無違理何 答有苦之處即名苦處。誰云要在三塗苦處 又下二見五受倶門。初師三塗有分別惑。今依彼説亦不相違 此通下言顯此論中明極苦處通有分別・倶生二惑故指如下。非説倶生・分別二見皆與嗔倶。由此苦處分別二見嗔倶無妨。若不爾者。更有何義云如下耶。」(『演秘』第五末・八右。大正43・922a)

 (「論に、此と三の見とは或は相応することを得べし等とは、有る義は分別の身辺二見は瞋と倶なり。倶生の者は唯無記性なり、瞋は唯不善なるに由るが故に彼と倶なるに非ず。
 論に苦蘊と云うは但善趣の苦受と倶なること有るに於て苦有る蘊と名づく。
 疏に苦処と説き又二見に通ずと云う、此れ定んで然らず。詳らかにして曰く、乍ち疏の文を観れば誠に所存の如し、細かに其の理を尋ぬるに理即ち違うこと無し。理に違うこと無きは何んぞ。
 答う(初釈)、有苦の処を即ち苦処と名づく。誰か要ず三途苦処に在るを云わん。
 又(第二釈)、下の二見の五受倶門に、初師は三途に分別の惑有りと云う、今彼の説に依るに亦相違せず。此れは下の言に通ず、この論の中には極苦処に通じて分別倶生の二惑有りと明かすを顕す。故に指して下の如しという。倶生分別の二見皆瞋と倶なりと説くには非ず。此れに由りて苦処の分別の二見瞋と倶なるというに妨げ無し。若し爾らずんば更に何の義有りて如下と云うや。」)

 下に至って、煩悩の三性の問題が考究されますので、本科段の解釈は、瞋と薩迦耶見と辺執見(常見)が倶起するのはただ分別起のみであり、倶生起については瞋と相応するものでは無いと云うことになるようです。