唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (23) 自類相応門 (9) 

2014-07-27 18:20:42 | 心の構造について

 本科段は、瞋と(五)見との相応について説明されます。

 「瞋は二取とは必ず相応せず、執じて勝なり道なりと為すときには、彼を憎せざるが故に。」(『論』第六・十七右)

 瞋は二取(見取見・戒禁取見)とは必ず相応しないのである。何故なら、見取見は執して勝とし、戒禁取見は執して道となして、ともによく清浄を得る見解である。それは己に順ずる境であるとされますので、これに対して憎むということは起こらない。従って、瞋と見取見、瞋と戒禁取見とは相応しないのである。

 見取見は、「諸見と及び所依の(五)蘊とに於て、執して最勝と為し、能く清浄を得すと云う。」

 戒禁取見は、「諸見に随順する戒禁と及び所依の(五)蘊とに於て、執して最勝なりと為し、能く清浄を得すと云う。」

 ともにですね、もろもろの見解と、その身体に於て「最勝と為す」。執着して一番勝れたるものであるとし、そして清浄であるところの涅槃に入ることが出来ると執着してしまうという誤った見解なのです。

 見取見は、「闘諍の所依」であり、戒禁取見は、「無利の勤苦の所依」であるとされます。「無利の勤苦」とは、何の利益もない徒労にすぎない、という意味になります。誤った見解、ものの見方ですが、この考え方が最勝であると執着をしますと、なにが起ってくるのかと言いますと、争いが起こるといわれ、また何の利益もないことに奔走して徒労に終わってしまう、このような生活を私たちはしているのではないのかと指摘しているのでしょうね。本当に大事なことを差し置いてですね、浮世にうつつを抜かして幸せを感じようとする姿勢です。

 本科段の意味するところとは違いますが、このような見解は瞋とは相応するものでは無い、自分に順じた考え方になりますから、対象に対して怒りを発する瞋は生起しないと説明されています。

「論。瞋與二取至不憎彼故 述曰。此必不倶。見取執爲勝。戒取執爲道。倶能得淨。順己之境不憎彼故。故不相應。諸論六煩惱明之。故無二取不倶起失 。」(『述記』第六末・三十五右。大正43・450c)

 (「述して曰く。此は必ず倶ならず、見取は執して勝と無し、戒取は執して道と為り、倶に能く淨を得。己に順ずる境なるを以て、彼を憎まざるが故に。故に相応せず。諸論には六煩悩において、これを明かす。故に二取倶起せざる失無し。」)

 正見ではない、悪見のもっている業は、「己に順ずる」という我執の赴くままに涅槃を得るという錯誤なんでしょうね。「俺のいう通りにしておれば間違いないんや」という見解ですね。何が間違いで、何が間違いではないのでしょうか。その決定的判断が悪見なんですね。ですから、「疑」という心所は「猶予する」と云われていましたが、正見に対して猶予するということと、悪見に対して猶予するということがあるように思います。

 余談ですが、居場所という問題です。居場所を求めて右往左往しているんですね。右往左往していること自体が、閉鎖された世界の中の出来事として、身を通して心の有り様が外に投げ出されたものであるのではないかと思いますね。「己に順じた」生き方が心地よいと錯覚を起こしているのでしょう。錯覚はねじれ現象ですから、もとにかえろうとする回帰現象ですね、ねじれ解消の現象が起こってくるわけです。しかし、そこに素直になれない自分がいます。覆い隠すようにして自分の立脚地を忘れますね。忘れさそうとするこころの働きがあるということを思うんですが。

 何か、瞋と見取、瞋と戒禁取は相応しない、という本科段を読ませていただくと、知らず知らずの中に自己中心的な発想、見解が正しいと思い込ませてしまう心的要素が潜んでいるように思いますが、皆さんはどうのように思われますか。