唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (21) 自類相応門 (7) 

2014-07-21 17:12:31 | 心の構造について

 瞋と慢が相応する場合について

 所蔑の境(他を蔑視し見下す煩悩)と、所憎の境(他を憎む煩悩)とは同一であるから相応すると説かれます。

 『瑜伽論』巻第五十五の所論は、「何れの煩悩と何れの煩悩と相応するや」と問を設け、答えとして「無明(癡)は一切と與(トモ)なり、疑は都(スベ)所有無(アルコトナ)く、貪・瞋は互に相い無く、此れ或は慢・見と與なり、謂く染愛(ゼンアイ)する時、或は高挙(コウコ)し、或は推求(スイグ)す、染愛の如く憎恚(ゾウイ)も亦爾なり。慢と見とは或は更に相応す、謂く高挙する時復邪に推搆(スイコウ)するなり。」

  •  推搆 ーおしはかること。

 無明は一切と相応することが明らかにされ、貪・瞋・疑は相応することなく、貪と瞋は相応することなく、貪は慢と見と相応することがあり、瞋もまた慢と見と相応することがある旨が示されています。つまりですね、染愛という貪りの心はですね、染愛する心に於て他を見下し、自分が勝れていると誇るわけです。「慢とは、己を恃って他に於て高挙するを性と為す」といわれています。高挙の慢は卑下慢の対です。染愛のように、瞋の対象は、所憎の境とは同じことであるとし、怒り憎しむ対象と、己を恃んで他を蔑視し見下す対象は同じ対象であるから、瞋と慢とは相応することが有ると述べられています。

 後半になります。

 瞋は疑と相応する場合と、相応しない場合について説明されます。

 「初に猶予する時には未だ彼を憎ぜざるが故に、倶起せずと説けり、久しく思えども決せざるときには、便ち憤発(フンポツ)するが故に、相応することを得と説けり。」(『論』第六・十七右)

 初めに、猶予(疑の心所の定義)している時には未だかれを憎んでいないから、瞋と疑とは相応しないと説かれ、彼を久しく思っていても、猶予の働きによって、決定していない時には憤発するので、瞋と疑とは相応すると説かれている。

 初に猶予している時 - 「又初疑時心尚軽未憎彼故。瑜伽五十五五十八倶説不相応。」(又初に疑する時に、心は尚軽なり。未だ彼を憎せざるが故に。瑜伽の五十五・五十八に倶に相応せずと説けり。」)認識対象が決定していない時は、瞋の対象でる憎悪が生起していないので瞋と疑とは相応しない。

 久しく思って決せざる時 - 「心遂重故、便瞋於彼。対法第五説得瞋疑相応」(久しく思えども決せざれば、心は遂に重なる故に、便ち彼を瞋す。対法の第五に、瞋と疑と相応することを得と説けり。」)対象を久しく思っていても決定しない場合には、久しく思っている時間の長さによって、対象を縁じる心(能縁の心)が重くなり、どんどん陰鬱になって怒りを発する(憤発)ことがある、このような場合には瞋と疑とは相応するのである、と。

 「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情を以て所止とす。」(『正信偈』)

 迷いを重ねるということは、能縁の心が重くなる、陰鬱になるということでしょう。迷いを重ねているとは思っていなくてもですね、「決以疑情為所止」なのでしょう。迷いを重ねることは、四諦の理に昏いということですね。本願念仏の法を疑い猶予している時には、怒りが憤発することがある、と。

 瞋と疑とは何の関係もないと思うのですが、そうではないと教えています。本願念仏の法を疑うという背景をもって、長年迷いを重ねてくると怒りが生起してくるというのです。つまり、怒りの背景にあるのは疑であるということになりますね。