前科段に於いて、貪は慢と見と相応する場合と、相応しない場合があると説かれていた根拠を本科段で説かれます。
貪は慢と相応する場合と、相応しない場合について
「所愛(ショアイ)と所陵(ショリョウ)との境一に非ざるが故に、倶起せずと説けり。所染(ショゼン)と所恃(ショジ)とは境同なる可きが故に、相応することを得と説けり。」(『論』第六・十六左)
- 所愛 - 「愛される」。「親愛な」。「好ましい」。「喜ばしい」等を意味する形容句。貪の対象。
- 所陵 - 陵他の慢。他者を見下す慢のこと。他者を陵すること。
- 所染 - 染著する対象。
- 所恃 - 自己を恃すこと。自分をたよりにすること。
語句説明でも解りますように。所愛と所陵とは境が違います。所染と所恃とは境が同じですね。
陵他の慢 所陵の境
慢 く 境 く
恃己の慢 所恃の境
「所愛所陵至説得相應 述曰。此解彼云。謂若於他起愛染者。必不陵彼。以境非同行相亦別。故不倶起。然縁己身起愛名所染。與所恃之我慢等境可一故。對法等説得相應。前約行相麁者。此約行相細者。如前第四卷第七識中已多門解。」(『述記』第六末・三十三右。大正43・450b)
(「述して曰く。此こに彼(所愛)を解して云く、謂く若し他のうえに愛染を起こすと云うは、必ず彼を陵せず。境に同に非ず、行相も亦別なるを以ての故に倶起せず。
然るに己身を縁じて愛を起こすを所染と名くるときは、所恃の我慢等と境一なるべきが故に。対法等には相応することを得と。前は行相麤なる者のみに約し、此は行相細なる者に約す。前の第四巻の第七識の中に已に多門を以て解するが如し。」)
二段階で説明されています。初は、慢は陵他の慢であり、対象は所陵の境であるとされます。 これは対象を見下す煩悩ですね。しかし、所愛は、自分の愛著する対象に対して見下すことはないのです。要するに、見下す対象に対しては愛著を起こすことはないんです。従って貪と慢とは相応することがないとされます。
しかし、所染の境(自身)と、所恃の境(自分を恃む慢)は同じものであることから、相応すると説かれているのです。
教証として、『雑集論』(巻第六。大正31・723a)を引用しています、前半部分の教証は『瑜伽論』(巻第五十八。大正30・623a)が引用されます。