第二、自類相応門。
この場合の自類とは煩悩法であり、初は問い、後に答えが示されます。
概要
煩悩法について、煩悩同士の倶起(相応)を説明する科段になります。十煩悩の中で、同時に並存するものと、並存しないものがあることの問題を論じるところになります。
例えば、貪の煩悩は瞋と疑とは倶起しないと説かれているが、その理由とは何なのか。逆に、慢と見とは相応すると説かれているのは何故か等、私たちの迷いの複雑さを解明してきます。
十の煩悩同士がどういう関係になるのかが説かれますが、結びとして、「癡は九種と皆定めて相応す」と説かれています。癡は癡以外の九種の煩悩と必ず相応するんだ、ということですね。
「諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」
癡は、分別起・倶生起。そして貪・瞋・慢・疑・我見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見と相応して働いてくるということになります。癡に由って真理が覆われている、覆っている正体は癡であるというわけですね。癡は無明です。智慧がないのですが、それは「二空に迷謬」しているということであると教えています。
私たちの戦いはいわば二空との凌ぎ合いということになりましょうか。二空という真理に背いていくところに煩悩が起ってくるのですね、ですから煩悩が問題ではなく、いかにして二空(我空・法空)を修めるのかが問題となってくるようです。
真宗でいえば、本願に背いているのが、疑城胎宮とおさえられますが、疑城胎宮が問題ではなく、本願に背いている自身が問題なのでしょうね。何故、本願に背くのか、背く理由はどこにあるのかが問われている、いわば私の宿題が与えられているということになりましょうか。
「此の十の煩悩において、誰か幾くとか相応する」(『論』第六・十六左)
「述して曰く。この下は第二に自類相応す。此は問起なり」(『述記』第六末・二十一右)