上来、瞋と薩迦耶見と辺執見の内の常見についての場合の倶起について説明してきましたが、本科段に於ては、辺執見の内の断見の場合について説明がされます。
「断見は之に翻じて瞋の有無を説けり。」(『論』第六・十七右)
断見については、前科段の常見に翻対(正反対)して瞋と薩迦耶見と断見との倶起の有無を説くのである。
本科段は前科段の常見の正反対について述べられます。何故ならば、常と断とは正反対であるからです。
常見 - 楽 = 憎悪を生じない(瞋を起こさない)。 ー 瞋と薩迦耶見と常見は相応しない。
断見 ー 楽 = 憎悪を生じる(瞋を起こす)。 - 瞋と薩迦耶見と断見は相応する。
常見 - 苦 = 憎悪を生じる。
断見 - 苦 = 憎悪を生じない。
以上、常見と断見を合わせてみますと、瞋と薩迦耶見と辺執見は倶起する場合もあるが、倶起しない場合もあることが明らかになってきます。
僕の過去を振り返りますと、もうこの先何の夢も希望も無い、このまま眠りにつけば楽になるだろうな、と思ったことがありますが、このような考え方は断見に基ずいているわけですね。苦の有る五蘊に対して薩迦耶見と断見を起こしているわけです。苦を逃れる為に死を選ぶという行為は、死が同時に苦の断滅であるとする考え方になりますね。種子生現行・現行熏種子という三法展転同時因果を無視した独断、死んでも解決しないということですね。
今日坊主バーのHPでしたかね、妙ちゃんが『論註』の言葉を引用して感想を述べておられましたが、「惠蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」ということですね。自分に出遇うことがなかったならば、穢土も浄土も知ることが無いということですね。にもかかわらずですね、自分の依り所は自分なんですね、矛盾しましょう。こういうところが辺見なのでしょうね。自分に執着しますからね、辺執見と。楽は、未来永劫続けばいいと思いますし、苦は死をもってしても断ずるということなんでしょう。すべてですね、自分が量りになっているのですね。量りになっている、その自分が解らないというところに問題があるようです。
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