唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (17) 自類相応門 (3) 

2014-07-14 21:00:49 | 心の構造について

 何故、貪が疑と相応しないのかという理由を示します。

 「境の於に決せざるときには染著(ゼンジャク)すること無きが故に。」(『論』第六・十六右)

 愛の境と、疑の境とは相応しないことを証明しているのです。愛の境は必ず決定するが、疑の境は不定であるから、貪と疑とは相応しない、と説かれています。

 疑の心所をふりかえりますと、

 「云何なるをか疑と為す。 諸の諦・理とに於いて猶予するをもって性と為し。不疑の善品を障ゆるを以って業と為す。謂く猶予の者には善生ぜざるが故に」

 「諦」は四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)のこと。「理」はその道理です。私が苦しむのは何故か。その理由を明らかにし、苦からの解放は如何にしたら可能かという道理に対し疑いの心を起こすのです。「本当かな」というためらいをもつのが「疑い」の本性だといっているのです。そしてためらいをもっている限りですね、善という菩提心は生まれてこないと教えています。「疑」とはですね、苦の因は自分に有るということがわからないということでありますし、また苦のない世界があるということにも疑いを持っているということだと思います。道諦はそこに到る道があるということを明らかにしているのですが、私達はどうしても、苦の因を自分の外に求めていますからためらいがある(疑がある)のでしょうね。

 疑は猶予する心所に対し、貪は対象が何であるか決定する心所ですから、貪と疑は相応しないというのは理明らかである。

 後には、貪と慢、及び貪と見(五見)の相応について説かれます。

 「貪は慢と見とは或は相応することを得」(『論』第六・十六左)

 貪は慢と五見とは、或は相応することがある(相応しない場合もある)。 

 原漢文は「得相応」と書かれていますから、「相応することを得」が前提となります。そして、「相応しない時もある」が隠されたされた意味になりましょうか。全体的には不定を表しています。

 『雑集論』(巻第五)及び『瑜伽論』巻第五十五には「貪は慢と相応する」と説かれているが、同巻第五十八には「慢と相応することを得ず」とも説かれているのである。

 次科段ではその根拠が示されます。

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (16) 自類相応門 (2) 

2014-07-12 11:16:12 | 心の構造について

 答。

 「貪は瞋と疑とは定んで倶起せず。」(『論』第六・十六左)

 貪は瞋と疑とは倶起(相応)しない。

 本科段より 「此十煩悩誰幾相応」 の問いに答えてきます。この科段が六に分けられて説明されます。

  1.  貪と他の煩悩との相応について、
  2.  瞋と他の煩悩との相応について、
  3.  慢と他の煩悩との相応について、
  4.  疑と他の煩悩との相応について、
  5.  (五)見同士の相応について、
  6.  癡と他の煩悩との相応について、

 (1)が二つに分けられます。
                                               
                         貪と瞋、貪と疑の相応について説かれる。 
 貪と他の煩悩との相応について、 く                         
                         貪と慢、貪と見の相応について説かれる。

 本科段は、貪は瞋、疑と相応しないことを説明し、後に相応しない根拠を挙げて説明されます。

 「問。何を以て、貪と瞋と倶起することを得ざるや」(『述記』)

 先ず、癡は九種の煩悩と相応する為に、その他の煩悩からは除外されています。その為に、貪・瞋・慢・疑・見それぞれの自類相応の中、癡との相応については言及されてきません。

 「此れは初なり。対法の第六、大論五十五と五十八とは説文同じ」(『述記』)

 貪が瞋・疑と相応しないことについては、『雑集論』(巻第六。大正31・723a)、『瑜伽論』(巻第五十五。大正30・603a及び五十八。大正30・622a)にも同じことが説かれていると『述記』は述べています。

 その理由について

 「愛と憎と二の境は必ず同に不ざるが故に。」(『論』第六・十六左)

 貪が瞋と相応しないのは、ちょっと説明になりますが、(二)は貪と瞋を指します)貪の境(対象)は「愛」であり、瞋の境は「憎」であることを意味します。従って、貪の対象と瞋の対象は同じものではないところから相応しないというわけです。

「問何以貪・瞋不得倶起 論。愛憎二境必不同故 述曰。染・憎不倶。境既不同。行相亦別。以相違故 若爾貪倶憂・苦相返。瞋倶樂・喜爲例亦爾。何得相應。愛・迫二境得倶起故。行相不違故無此失。如下當知。」(『述記』第六末・三十二左。大正43・450a)

 (「述して曰く。染と憎とは倶ならず。境既に同じからず。行相亦別なり。相違するをもっての故に。若し爾らば貪と倶なる憂苦は相返せり。瞋と倶なる楽喜も例となるに亦爾なり。何ぞ相応することを得る。愛と迫と二の境倶起することを得るが故なり。行相違せざるが故に、此の失なし。當に下の如く知るべし。」)

 貪と瞋の対象は一致しないということなのですが、貪は貪りですが、愛染するものであり、瞋は憎と押さえられています。憎恚と愛染とは自ずからその対象は違うわけですから、貪が瞋と相応しないことを説明しているのですね。

 憎恚(ゾウイ) - にくしみいかること。「瞋は憎恚を以て性と為す」

 愛染(アイゼン) - 物や人に対する愛着。阿頼耶識は執蔵と云う意味を以て、愛着処といわれるところです。

 ここではこのように押さえられていますが、癡が相応してきますと、愛染が憎悪にかわることが起ってきます。愛別離苦といわれる極限状況では、可愛さ余って憎さ百倍というでしょう。これが根本の我癡ですね。 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (15) 自類相応門 (1) 

2014-07-11 23:17:17 | 心の構造について

 第二、自類相応門。

 この場合の自類とは煩悩法であり、初は問い、後に答えが示されます。

 概要

 煩悩法について、煩悩同士の倶起(相応)を説明する科段になります。十煩悩の中で、同時に並存するものと、並存しないものがあることの問題を論じるところになります。

 例えば、貪の煩悩は瞋と疑とは倶起しないと説かれているが、その理由とは何なのか。逆に、慢と見とは相応すると説かれているのは何故か等、私たちの迷いの複雑さを解明してきます。

 十の煩悩同士がどういう関係になるのかが説かれますが、結びとして、「癡は九種と皆定めて相応す」と説かれています。癡は癡以外の九種の煩悩と必ず相応するんだ、ということですね。

     「諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」

 癡は、分別起・倶生起。そして貪・瞋・慢・疑・我見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見と相応して働いてくるということになります。癡に由って真理が覆われている、覆っている正体は癡であるというわけですね。癡は無明です。智慧がないのですが、それは「二空に迷謬」しているということであると教えています。

 私たちの戦いはいわば二空との凌ぎ合いということになりましょうか。二空という真理に背いていくところに煩悩が起ってくるのですね、ですから煩悩が問題ではなく、いかにして二空(我空・法空)を修めるのかが問題となってくるようです。

 真宗でいえば、本願に背いているのが、疑城胎宮とおさえられますが、疑城胎宮が問題ではなく、本願に背いている自身が問題なのでしょうね。何故、本願に背くのか、背く理由はどこにあるのかが問われている、いわば私の宿題が与えられているということになりましょうか。

 「此の十の煩悩において、誰か幾くとか相応する」(『論』第六・十六左)

 「述して曰く。この下は第二に自類相応す。此は問起なり」(『述記』第六末・二十一右)


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (14) 分別倶生門 (13)

2014-07-09 22:53:49 | 心の構造について

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 お知らせ

 明日(10日) 八尾市本町 聞成坊様にて、午後三時より

 『成唯識論』の講義を行わせていただきます。今回のテーマは、種子の六義についてです。台風も心配ですが、お誘いあわせの上ご参加下さい。

 尚、13日(日)は大阪市旭区千林(地下鉄千林大宮下車3分)の正厳寺様にて、午後三時より、仏教入門講座(心の構造について)を開催します。
 今回のテーマは「人は何故悩み苦しむのか。その因はどこからくるのか」を考えます。

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 その三は、正義の根拠となる論書を挙げて証明されます。

 「故に顕揚等の諸論に皆説かく、五取蘊の於に断と執じ常と計するは、或は是れ倶生なり、或は分別起なりと云う。」(『論第六・十六右)

 故に、『顕揚論』(巻第一。大正31・482a)や『瑜伽論』(巻第八。大正30・313c)等の諸論に皆説かれている。

 「五取蘊に対して断と執着し、常と執着するのは、或は倶生起、或は分別起である」と。

 「論。故顯揚等至或分別起 述曰。類教也。顯揚第一。大論第八説故。於五蘊計常・斷。通倶生・分別。不簡倶生無常見故。釋現觀者。觀先所斷我無之時。但有斷見故唯説斷。非預流等許無常見 若爾前師如何釋後所引文 此依總語。非許常見亦通倶生。通倶生常見有何相状。如禽獸造・集。但爲有我非爲計常。常必由邪分別等故。然此二説。初則文全理闕。後有文顯理全。倶生常見有相状故。倶取無失。」(『述記』第六末・三十一左。大正43・450a) 

 「述して曰く。教に類すなり。顯揚第一。大論第八に説くが故に。五蘊に於て常なり断なりと計するは、倶生と分別とに通ず。倶生に常見なしとは簡ばざるが故に。現観を釈せば、先に断ずる所の我無と観ずる時は、但だ断見のみ有り。預流等に常見無と許すには非ず。若し爾らば前師如何が後の所引の文を釈するや。此は総に依って語す。常見亦た倶生に通ずと許すに非ず。倶生に通ずる常見は何の相状か有るや。禽獣の造集するが如きは、但だ我有りと為して常と計と為るに非ず。常は必ず邪分別等に依るが故に。然るに此の二説に於て初は則ち文は全理は闕たり。後は文顕に理全有り。倶生の常見も相状有るが故に、倶に取るに失無し。」

 五蘊において常としたり、断であると執着するのは、倶生起のものと分別起のものがあるということは、諸論に説かれている通りである。従って、辺執見の常見にも分別起のものと、倶生起のものがあることは証明されるのである。

 護法の主張する、貪・瞋・痴・慢・薩伽耶見・辺執見の六煩悩はすべて倶生起のものと、分別起のものがあるということが証明されるわけです。

 それに対し、十煩悩の中の残る四煩悩(疑・邪見・見取見・戒禁取見)はただ分別起であるということになります。

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (13) 分別倶生門 (12)

2014-07-07 19:50:23 | 心の構造について
  実際の事例を挙げて、辺執見は倶生起はまた常見にも通ずることを証明する。
 「謂く、禽獣(コンジュウ)の等きは我は常に在すと執じて、燃然(シネン)に長時の資具を造り集む。」(『論』第六・十六右)
 つまり、禽獣などは、己は常に存在すると執着をして燃然(火が燃え盛るように激しい有り様)に長時の資具を造り集めるからである。
 まあ、これは想像ですが、喩としては的を得ているのかもしれません。
 鳥たちの生態を見ていますと、誰に教わったわけでもないのにですね、持って生まれた性質でしょうか、ちゃんとですね、無始以来の遺伝子を受け継いでいるのでしょうね。巣箱など、それは見事に造り上げていきますね。
 何故このような行為に走るのかですね。「我は常に在すと執じて」と。自分は永遠に存在すると考えているからであると釈しているのです。「長時の資具」永遠に生活するための材料を集めていることから、このような行動に出るんだ、と。
 この行動は、教えられたわけではありませんから、倶生起の働きであり、そして「常に在する」と云われますから、常見の働きである。つまりですね、これは倶生起の常見があるからである。
 前段の喩を合わせてですね、倶生起には断見と常見があるというのが護法の正義になります。
 第一師の釈には少しですね、見落としがあるというわけです。
 この辺執見ですが、何故このような執着が起こるのかですね。ここには深い問題が隠されているのですね。
 私が日常生活の中で絶対に放さないものが三つあります。一つは、名を轟かせたい(名聞)、二つ目は、利益を得て、自分の身をどこまでも養っていきたい(利養)、三つ目が、絶対他者には負けない(勝他)ということなんです。このことに血眼になって奔走しています。何故なんでしょうか。
 大きく言えば、壊れるのが怖いという怯えからでしょうね。怯えを覆い隠すように名聞・利養・勝他に全力を傾けるのでしょう。これは私だけの話ではありません。すべての人の行動は似たり寄ったりなんですから、自他は対立概念の他にないんですね。そうしますと、この三つから放れなさいというのですが、放れられないということがありますね。どこまでいってもですね。
 これは何を教えているのかと云いますと、名聞・利養・勝他を捨てなさいと、捨てることに於いて安楽がもたらされますよ、と。表面的にはそうなんですが、もっと深いところで、捨てられん自分に遇いなさい、ということなんでしょうね。そして、捨てられん自分を問い続けていきましょう。
 高柳先生は、私たちは宿題をいただいているんですよ、と教えてくださいましたが、宿題には答えなければならない義務がありますね。宿題は嫌ですね。でもね、答えは出していかなければならないんですね。これが無始以来の宿題であり、宿題の深さが、未来の深さに連続しているということなんです。これを種子生現行・現行熏習子。三法展転因果同時と教えられているところですね。
 



雑感 「自他分別」

2014-07-05 21:22:22 | 心の構造について

 先日FBにおいて

 「昨日の学びから*教えられたこと。私たちは、少なくとも私は、仏法に遇うことによって苦悩が解決すると思っていたのです。
 皆さんがたは、どう思っておられるのでしょう。
 仏法に遇うと苦悩が解決するのでしょうか。
 僕はね、会話の中から、ふと気づかされたのですが、う~ん、どうでしょうか。
 もしかしたら、仏法に遇って苦悩が解決するのではなく、遇うことによって、苦悩している自身に出遇うのではないのか、と。
 深い自己自身との邂逅が仏縁によって開かれてくる。
 日想観、人は沈み行く夕陽に、生きることの意味を見いだしていたのではないだろうか、と。」いうコメントを書き込みました。

 僕も何を思ったのか、坊主バーに見えている彼に伝わるといいなと思って、続きを書き込んだんですね。

 「ややこしいことを言うと、問題は自分にあったということなんですよ。自分の心が外に投げ出されたことが、実は、自分が造り出していたということ。それを受けとることができないという目覚めが、道を歩ませる原動力になるんだと思っています。自己との葛藤がエネルギーとなって阿呆やれるんですわ。なんやかんやといっても歴史の一コマで阿呆できる時間は貴重ですよ。まあ、社会からは、社会人失格の烙印を押されますが、臨終の一念に「俺の人生は何だったのか」という嘆きを持つよりも、阿呆であるのがいいとは思いませんか。」と。

 僕は大変嬉しく思ったのが、僕のたわいのない話を真剣に自分の問題として聞いていてくれたということなんです。彼は長文に及ぶ感想を書いてくれました。彼の感想なんですが、正直びっくりしました。よく考えていただいたな、というのが本音です。 最初の文章からいいますと、

 「心は見えない、体は見える、実在する」

 このことは、普通の生活の中ではごく当たり前の話ですね。しかし、本当に実在していると見ている体を、実際に見ているんでしょうか。仏教の問いは、こんな身近な疑問から発せられているんです。  次にいい言葉が書かれていました。

 「何故見えない心が行動規範を決定できるのであろうか」  

 体とは、身体ですね、身と押さえられています。即ち身と心の問題です。身はまた色(物質)とも押さえられ、色心不二(シキシンフニ)である、身は心に離れず、心は身に離れず、しかもお互いの分限を侵さず、身は身として、心は心として独立しているのであると、はっきり身と心は別体(ベッタイ)であると規定しています。  そして、この身なんですが、身は五つの感覚器官によって構成され、五つの感覚器官が仮に助け合いながら身は保たれているということなんですね。実に実体としての身は存在しないのです。仮に存在しているとは言えます。「仮」であって「実」ではないということになりますね。  

 実際に証明されることは、一つの感覚器官が損傷しますと、身は機能しなくなります。仏教はこれを五蘊(ゴウン)と呼び、蘊とは、集合体と云う意味で、五つの構成要素の集合体が身であるということになります。表面に現れているのが身体であり、その中身は精神作用なんですね。中身が壊れると、身体は崩壊します。だからですね、「心病むと身病む」といわれるんですが、この時の心は身を構成している他の四つの作用なんです。心はもっと深い処から身を限定してきます。  このようなわけで、私たちは身そのものも見えていないということになりましょうね。でもね、見えていると思っていることが大きな鍵を握っているんですね。  仏教は「身」を大切なキーワードとしています。唯一物質をもったものが身だからです。身は世界の中で唯一占有している場にもなります。この占有している場は何人も犯すことのできない場なんですね。ですから、場が違えば見える風景も自ずと違ってきます。このようなところから自分と他人という発想が生まれてきたんではないかと思います。

 自他分別と云っていますけれども。「分」の先っぽは離れていますでしょう。刃で切ったんですね。刃は殺傷能力をもったもの、そして威嚇するもの、或は威嚇し他を従わせるものですね。他を隷属するものとして自他が別れたんです。  これをキリスト教でいえは、禁断の木の実を食べたと所に原罪があるとされています。それに対し贖罪をするのですね。それほど身のもっている問題は深いといえますし、それほど自分とは尊く深い存在であるということんですね。  アダムとエバ(イブ)の問題は、過去の話ではないということです。仏教では(過去世の)業を引くと云われています。この身は過去のすべてを引き受けている、今だけの話ではないというわけです。過去を背負ってきた歴史を背景として身は在るということになりましょうね。自分一人の問題ではないわけです。「自分の人生どう生きようと俺の勝手だ」というわけにはいかないんです。  仏教では因果というでしょう。業を引くことも同じ意味になりますが、悟りの道理には安楽(浄土真宗では極楽といいます)が与えられるんですが、「俺の勝手だ」という道理には、地獄の苦しみが与えられます。ともに道理に叶ったことなんです。  

 問題は、最初に戻りますが、身は在ると、見えるとする発想ですね。金子みすずさんは「みえないものでもあるんだよ」と詩っておられますでしょう。あの発想が大事ですね。見えないとされる心なんですね。心が見える身を規定してくるんです。  ぶっちゃけいってしまえば、身はほっておいていいんですよ。坊主バーで問いを貰ったことは、これは貴方が生れてくる背景に及ぶ迷いの歴史を背負っているということが問題になったということなんです。そして、何故苦悩するのかが、自分の人生の中で問いとして浮かびあがってきた。  それまでは、自他分別は当たり前のことだったと思います。自分にとって都合のいいものは取り込み、都合の悪いものは切り捨ててきたんではないですか。それを我執と押さえているんですね。貴方だけの問題ではありません。人類共通の問題です。人間と環境の問題も基本は自他分別です。環境破壊が問題となり、いかにして環境を守るのかが議論されますが、議論を尽くしても根っこに自他分別がある限り問題の解決は有りません。  

 自他分別を問うことが、自分の中から起こったということは、一歩世間の道理から外に出たことを意味しますね。ここが阿呆の第一歩なんです。阿呆とは、自他分別を超えたことを意味します。  鏡が無かったら自分を写すことは出来ませんが、自分を写す鏡があったとしても、判断を下す自分が問題とならなければ鏡は無いのと同じですね。  教えは無味乾燥なものです。真理とか、真如とか、無分別とかいろんな表現で教えが語られますが、門を叩く自分がいなければ、教えは何一つ応答してくれません。  そういう意味では仏教は非常に厳しいものです。  内と外ということも云われますが、外は内の表現なんですね。外が実体としてあるわけではないんです。内が内の限定表現として外を写し出しているんでしょうね。  まあそこがですね、外ばっかしを追い続けてきたことに疑問符が付いたというところにですね、人間としての深さに気づいたということになるんだと思います。自覚には程遠いかもしれませんが、自分の生き方が大きく方向転換したということに変わりはないと思います。  

 方向が転換したら阿呆できるんですよ。阿波踊りではないですが、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」とね。阿呆も独りよがりでできるもんではないんですよ。ともに生かされている大地を踏みしめて、人生を遊ぶが如く生きていければ、それが「遊煩悩林現神通」でしょう。我執からは絶対生まれてこない世界ですね。  また思いついたら書き込みます。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (12) 分別倶生門 (11)

2014-07-03 22:09:08 | 心の構造について

 分別起の我見と倶生起の我見という、表面に現れている我見とですね、つまり第六意識相応の我見の底に第七末那識相応の我見が潜んでいる。この我見が「一切の見趣の所依」であると説明されてありました。すべてのものの見方が、我中心の見方になっているわけです。我中心ということは、阿頼耶識の現行である所の、見相二分ですが、見相二分を以て阿頼耶識を表現しているわけです。転識である第七末那識との関係では、阿頼耶識の見分を本質(疎所縁)として、第七末那識の相分上に影像を変現し、これを親所縁として我と執着することを起こしてくるわけです。

 阿頼耶識の種々相は「恒転如暴流」なんです、無常なのですが、無常を執し、常であると執し続けて生きていると云われていますね。つまり、「実に外境は無くして、唯だ内識のみ有りて外境に似て生ずるということを」。外境は識の所変現であって、この識の所変現のみが所縁となり得ると説かれているのです。

 分別起の我見でいいますと、「自己中心で生きているな」と自分の心を見ことはできますが、この見ている心は影像であるということになるんですね。ですから、「これでは駄目だな。こういう自分の心を知らしめる為にご苦労があるんだな」と思っても、思う心が我見として教えられているのですね。何か自分で自分の心を見ているような気持ちになってしまうのですが、実は、そうではなかったんです。直接自分の心を見ているのではなく、自分の心に映じられたものを、識そのものは、その映じられたものを相分として見ているのです。「自己中心で生きているな」と思ったことは間違いのないことですが、この思いを本質として、もう一度解釈をし直す。ここが倶生起の厄介なところになりますね。解釈をし直す、ということが計度分別(ケタクフンベツ)といわれています。解釈をし直すと、どうなるのかですが、外境有りと執するのですね、この執はもともとはないものなんです、何故、執が起こるのかは、無いものを有るとするところに執は必然するのですね。

 唯識は、「(外境は)実に皆無し」と宗を挙げ、真実は、識の所変現でしかないことを明らかにしたのです。

 面白いですね。執着はもともと存在しないもの。でも自分に執われ、自分のものとして執を起こしているのが現存在でしょう。現存在そのものが道理に反したものとして生きているということなんですね、これを邪見として押さえられているのですね。邪見は分別起ですが、邪見の底に我見が潜んでいるということなんです。

 しかしですね、倶生起の我見は無覆無記だと教えられていることは、正見と我見は不即不離であることを示しているんでしょうね。

 「摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、
 貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。」(『正信偈』)

 「貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。」と、有覆であるけれども、「摂取の心光、常に照護したまう。」と教えられていますね。破闇満願なんだけれども、煩悩に覆われていることが見えたのが真実信心の内景ではないでしょうか。『正信偈』は先ず本質を出しています。すでにして道有り、と。救済の道理は完成していることを先ず述べて、真実信心を覆っているのが影像であるところの煩悩である、と。ここの説き方は倶生起について述べられている所だと思います。もう一つは、行間にですね。煩悩を本質として、第七識の相分上に影像を映じ、これを親所縁として見ているということが説かれているように思います。我は無いんですね。「諸法無我・諸行無常」であると云われ、「仏教は無我にて候」といわれているでしょう。本来ですね、無いものを所縁とすることは出来ないのですね。ただ、内識の所変現を所縁としているわけですが、「自の妄情に随って」計度分別を起こしているに過ぎないのだ、と。親鸞聖人は深いところの我見を見よ、と教えて下さっているように思います。

 昨夜は獅子吼の会の法話を聴聞しにいっておりました。その後、だいぶはっちゃけていました。FBに写真を投稿しましたが現実に戻って真面目に学びを続けたいと思います。

 明日は坊主バースタッフですので休載します。

 また日・月は聞光洞一泊研修会の為休載します。ご了承ください。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (11) 分別倶生門 (10)

2014-07-01 21:39:55 | 心の構造について

 ちょっと脱線していますが、今日は第八識と第七識との関係について考えていきます。

 第二能変に入りますと、第五頌第三句に「依彼転縁彼」(本識である阿頼耶識を所依とし相続して、所依の阿頼耶識の見分を所縁として「我」と執する。)

 「彼(阿頼耶識)に依って転じて彼(阿頼耶識)を縁ず」るのが第七末那識の特徴ですね。しかし、第七末那識は阿頼耶識から生起したものです。阿頼耶識の三義が述べられていましたが、能蔵・所蔵・執蔵という三つの意味を持っているのが阿頼耶識だと。蔵は一切種子識である、すべての経験を蓄積している蔵識ですが、ここから衆縁によって転じた具体的な働きが、眼・耳・鼻・舌・身・意ですね。六転識と云われていますが、その底に末那であるところの染汚識が、六転識に影響を与えているわけです。中心が染汚性を持っている第七末那識であるわけです。この第七末那識は阿頼耶識を所縁として現行するわけですが、現行した刹那に阿頼耶識の見分を「我」であると執するわけです。阿頼耶識は執せられるところだといわれているのです。執着したから駄目だ、受け入れないというわけにはいかないのですね。

 第七識は、阿頼耶識の見分を本質(疎所縁)として、第七識の相分上に影像を立てるわけです。その影像を第七識の見分が認識を起こしているのですね。第七識の相分上に影像を立てた刹那(瞬間)に「我」と執していますから、見分は執された「我」を見ているという構造ですね。

 現行識は、すべて第七末那識によって染汚されているといっても過言ではないのですね。染汚されていますから、名聞・利養・勝他に走っていくのは当然の帰結なわけです。否定してもですね、染汚の構造が自我中心にならざるを得ないわけです。ここに苦悩が私の上に現れてくるのですね。これが大事な所なんです。何故、苦悩するのか、ですね。

 種子(無始以来虚妄に熏習されてきた自の内我に依るが故に) → 現行(七転識) → 種子(虚妄熏習) → 現行(有為有漏=苦悩の源泉)

 このような不の連鎖を断ち切るのが聞法なんですね。聞法なくして不の連鎖は断ち切ることはできないのです。

 ですから世間のなりわいはですね、種子 → 現行 → 種子の輪廻から解放されることはないのです。どれだけ平和の為に、国の安全の為にと議論を尽くしても、根本問題にメスを入れない限り、人間の傲慢性を暴くことは出来ないのでしょう。他人のことではありません。自らの傲慢性が白日のもとに晒されることが肝要だと思いますが、

   いろはにほへと 
     ちりぬるを
      わかよたれそ 
       つねならむ 
   うゐのおくやま 
     けふこえて 
      あさきゆめみし 
       ゑひもせす