唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (14) 分別倶生門 (13)

2014-07-09 22:53:49 | 心の構造について

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 お知らせ

 明日(10日) 八尾市本町 聞成坊様にて、午後三時より

 『成唯識論』の講義を行わせていただきます。今回のテーマは、種子の六義についてです。台風も心配ですが、お誘いあわせの上ご参加下さい。

 尚、13日(日)は大阪市旭区千林(地下鉄千林大宮下車3分)の正厳寺様にて、午後三時より、仏教入門講座(心の構造について)を開催します。
 今回のテーマは「人は何故悩み苦しむのか。その因はどこからくるのか」を考えます。

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 その三は、正義の根拠となる論書を挙げて証明されます。

 「故に顕揚等の諸論に皆説かく、五取蘊の於に断と執じ常と計するは、或は是れ倶生なり、或は分別起なりと云う。」(『論第六・十六右)

 故に、『顕揚論』(巻第一。大正31・482a)や『瑜伽論』(巻第八。大正30・313c)等の諸論に皆説かれている。

 「五取蘊に対して断と執着し、常と執着するのは、或は倶生起、或は分別起である」と。

 「論。故顯揚等至或分別起 述曰。類教也。顯揚第一。大論第八説故。於五蘊計常・斷。通倶生・分別。不簡倶生無常見故。釋現觀者。觀先所斷我無之時。但有斷見故唯説斷。非預流等許無常見 若爾前師如何釋後所引文 此依總語。非許常見亦通倶生。通倶生常見有何相状。如禽獸造・集。但爲有我非爲計常。常必由邪分別等故。然此二説。初則文全理闕。後有文顯理全。倶生常見有相状故。倶取無失。」(『述記』第六末・三十一左。大正43・450a) 

 「述して曰く。教に類すなり。顯揚第一。大論第八に説くが故に。五蘊に於て常なり断なりと計するは、倶生と分別とに通ず。倶生に常見なしとは簡ばざるが故に。現観を釈せば、先に断ずる所の我無と観ずる時は、但だ断見のみ有り。預流等に常見無と許すには非ず。若し爾らば前師如何が後の所引の文を釈するや。此は総に依って語す。常見亦た倶生に通ずと許すに非ず。倶生に通ずる常見は何の相状か有るや。禽獣の造集するが如きは、但だ我有りと為して常と計と為るに非ず。常は必ず邪分別等に依るが故に。然るに此の二説に於て初は則ち文は全理は闕たり。後は文顕に理全有り。倶生の常見も相状有るが故に、倶に取るに失無し。」

 五蘊において常としたり、断であると執着するのは、倶生起のものと分別起のものがあるということは、諸論に説かれている通りである。従って、辺執見の常見にも分別起のものと、倶生起のものがあることは証明されるのである。

 護法の主張する、貪・瞋・痴・慢・薩伽耶見・辺執見の六煩悩はすべて倶生起のものと、分別起のものがあるということが証明されるわけです。

 それに対し、十煩悩の中の残る四煩悩(疑・邪見・見取見・戒禁取見)はただ分別起であるということになります。