次は、順と違から説き明かされる。
「順と違との事を疑うも応に随って亦爾なり。」(『論』第六・十七右)
順と違との事を疑う場合も同様である。つまりですね、瞋は疑と相応する場合と、相応しない場合があることを順と違から説き明かされます。
順とは、順境でしょうし、違とは、逆境のことでしょう。自分にとって都合のいいこと、或は都合の悪いことですが、この事態を疑う場合も、相応する場合と、相応しない場合があるということなのですが、どういうことを言っているのかですね。こいうところは『論』だけではやっかいですね。意味するところがはっきりしません。はっきりしないのは、こちらの力量によるのでしょうが、でもなんとか知りたいと思います。そこで論書が大切な役目をもってくるのだと思います。ここは『述記』に伺ってみたいと思います。
- 順の場合 - 瞋を起こさないから瞋と疑とは相応しない。
- 違の場合 - 瞋を起こすので、瞋と疑とば相応する。
「論。疑順違事隨應亦爾 述曰。又順・違事解。若疑順己之事或不起瞋。謂疑苦・集諦。若疑違己之事。便瞋於彼説得相應。謂疑滅・道諦。又若現行善疑未來無。便與瞋倶。善法順已。行因無果故。若現行惡疑未來無。便瞋不倶。惡法損己故。於順・違二事各有倶・不倶。故言隨應亦爾。」(『述記』第六末・三十四左。大正43・450b~c)
(「述して曰く。又順と違との事において解す。若し己に順ぜる事を疑うならば、或は瞋を起こさず。 謂く苦集諦を疑うなり。若し己に違する事を疑うならば、便ち彼を瞋す。相応することを得と説けり。謂く滅道諦を疑うなり。又若し現に善を行じ、未来は無なりと疑うならば、便ち瞋と倶なり。善法は己に順じ因を行ずるも果なき故に。若し現に悪を行じ、未来は無なりと疑うならば、便ち瞋は倶ならず。悪法は己を損するが故に。順違の二事に於て各々倶不倶有るが故に。応に随って亦爾なりと言う。」)
順の事を疑う場合
苦諦と集諦を疑うことである。具体的には五蘊のことを云っています。五蘊が有るのかと疑うことです。この時には瞋は生じないといわれているのです。少しわかりにくいですね、というより僕にはわかりませんが、ヒソカニ考えて見ればですね、五蘊は仮和合なんだけれども、有情は五蘊は実体的に有として執着をしております。この実体化に執着しているのが有情の意に順じるものである、といわれているのですね。その時には、有情の意に順じるものである為に瞋は生じないというわけでしょうかね。
即ち、順の事に於ては瞋と疑は相応しないといわれているわけです。
違の事を疑う場合
滅諦と道諦を疑う場合と云われています。つまり、滅・道諦ですから、「五蘊が無い」場合ですね。この時は瞋は生じると云われるのです。「無い」ということはどういうことなのでしょうかね。私は特にそうかもしれませんが、五蘊が無いのかと疑うことに怯えを懐いていると思います。此の時は外に対して攻撃的になるんですね。内なる怯えが外に向かいます。自分を隠すためにですね。「無いのか」と疑うことは、「無くては困る」という疑いでしょうかね。この場合は瞋と疑は相応するといいます。
この逆もあるわけですが、要するに、「有」に重点を置いたときは瞋と疑は相応し、「無」に重点を置いたときは瞋と疑は相応しないといわれているんでしょうね。
ここは根源的な迷いの質が問われている所になるのでしょうか。私たちは有的存在なのでしょうね。生きていることに執着をし、執着あるが故に生の謳歌といいましょうか、悩んだり、苦しんだりしながら生の実感を感じているんでしょう。その中に溺れていると「時の過ぎ行くままに」という一過性のなかで、瞋と疑は相応しない場合があるということになるのではないでしょうか。
しかし、やがて死の影が忍び寄る時になりますと、取り乱しますね。「死にたくない」。もう亡くなりましたが、父のことをいうとですね。老いからくる衰えですが、寝たきりになりますと、自分の思うようにならないというイライラが募るのですね。そうしますとね、「死にたい」というんです。正直ではないですよね。生きたい為に死にたいというているんです。つまりですね、四諦の理を疑っているんです、そして怒りを爆発させていくんですね。そうしますと、瞋と疑とは相応する場合もあるということになります。まあこんなことを思うんですが、どうでしょうか。御意見お聞かせください。