唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (19) 自類相応門 (5) 

2014-07-17 22:09:05 | 心の構造について

 いやぁ、暑いですね。今日は久々に車両の手すり(600番仕上げ鏡面)を汗だくで仕上げました。バテバテですが、こういう時はビールが旨いですね。ヒョットシテアルチュウ、ヒョットセンデモ。でもMobにいく元気がなかった。明日は坊主バー、大丈夫ナンカナ。 トイウコトデブログ更新です。

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 貪は見と相応する場合の根拠を示されます。但し、相応しない場合もあるということです。

 「五見の境に於ては皆、可愛(カアイ)なるが故に、貪と五見と相応すというに失(トガ)無し。」(『論』第六・十六左)

 五見の対象は、すべて可愛(好ましい。愛すべき)である。従って貪と五見とは相応するということに過失はないのである。

 

 貪の対象 - 染著
               }  同

 

           
 見の対象 - 可愛

 

 相応しない場合ですが、法相唯識では、五見中の邪見は因果撥無であって、邪見は貪と相応しないという見解をとっています。

 

 「論。於五見境至相應無失 述曰。愛・見二種有時可同。皆可愛故。相應無失。諸論共同。無相違處。此中論言説者有二義。一約此論。自道理可得説與彼相應義。二解説者謂餘瑜伽等約此理故説與倶起。又此言得相應。非謂一切恒相應。有時倶起故。然此中一行法。以第一問已以第二問餘。捨第一不問。如是展轉已下可知。」(『述記』第六末・三十三左。大正43・450b)

 

 (「述して曰く。愛と見との二種は有る時に同なるべし。皆、愛すべきが故に相応に失無し。諸論共に同じ、相違する処無し。此の中の論に説と言うは二義有り。
 一に此の論に約して、自の道理として彼と相応する義を説くことを得べし。
 二に解す、説とは、謂く余の
瑜伽等に此の理に約するが故に與に倶起すと
説くを以ての故に。
 又、此に相応を得ると言うは、一切恒に相応すと謂うには非ず、有る時に倶起するが故に、然るに此の中に一行の法は、第一を以て問に已しぬる。第二を以て余を問うは第一を捨て問わず。是の如く展転して已下に知るべし。」)

 

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 皆さんにお聞きしたいと思います。感想をお寄せください。ある人との対話です。まだまだ続くと思います。

 

 「応答、「ややこしいことを言うと、問題は自分にあったということなんですよ。自分の心が外に投げ出されたことが、実は、自分が造り出していたということ。それを受けとることができないという目覚めが、道を歩ませる原動力になるんだと思っています。自己との葛藤がエネルギーとなって阿呆やれるんですわ。なんやかんやといっても歴史の一コマで阿呆できる時間は貴重ですよ。まあ、社会からは、社会人失格の烙印を押されますが、臨終の一念に「俺の人生は何だったのか」という嘆きを持つよりも、阿呆であるのがいいとは思いませんか。
 此れに対しての感想なんだけど、正直びっくりしました。よく考えていただいたな、というのが本音です。
 最初の文章からいいますと、「心は見えない、体は見える、実在する」このことは、普通の生活の中ではごく当たり前の話ですね。しかし、本当に実在していると見ている体を、実際に見ているんでしょうか。仏教の問いは、こんな身近な疑問から発せられているんです。
 次にいい言葉が書かれていました。「何故見えない心が行動規範を決定できるのであろうか」です。
 体とは、身体ですね、身と押さえられています。即ち身と心の問題です。身はまた色(物質)とも押さえられ、色心不二(シキシンフニ)である、身は心に離れず、心は身に離れず、しかもお互いの分限を侵さず、身は身として、心は心として独立しているのであると、はっきり身と心は別体(ベッタイ)であると規定しています。
 そして、この身なんですが、身は五つの感覚器官によって構成され、五つの感覚器官が仮に助け合いながら身は保たれているということなんですね。実に実体としての身は存在しないのです。仮に存在しているとは言えます。「仮」であって「実」ではないということになりますね。
 実際に証明されることは、一つの感覚器官が損傷しますと、身は機能しなくなります。仏教はこれを五蘊(ゴウン)と呼び、蘊とは、集合体と云う意味で、五つの構成要素の集合体が身であるということになります。表面に現れているのが身体であり、その中身は精神作用なんですね。中身が壊れると、身体は崩壊します。だからですね、「心病むと身病む」といわれるんですが、この時の心は身を構成している他の四つの作用なんです。心はもっと深い処から身を限定してきます。
 このようなわけで、私たちは身そのものも見えていないということになりましょうね。でもね、見えていると思っていることが大きな鍵を握っているんですね。
 仏教は「身」を大切なキーワードとしています。唯一物質をもったものが身だからです。身は世界の中で唯一占有している場にもなります。この占有している場は何人も犯すことのできない場なんですね。ですから、場が違えば見える風景も自ずと違ってきます。このようなところから自分と他人という発想が生まれてきたんではないかと思います。自他分別と云っていますけれども。「分」の先っぽは離れていますでしょう。刃で切ったんですね。刃は殺傷能力をもったもの、そして威嚇するもの、或は威嚇し他を従わせるものですね。他を隷属するものとして自他が別れたんです。
 これをキリスト教でいえは、禁断の木の実を食べたと所に原罪があるとされています。それに対し贖罪をするのですね。それほど身のもっている問題は深いといえますし、それほど自分とは尊く深い存在であるということんですね。
 アダムとエバ(イブ)の問題は、過去の話ではないということです。仏教では(過去世の)業を引くと云われています。この身は過去のすべてを引き受けている、今だけの話ではないというわけです。過去を背負ってきた歴史を背景として身は在るということになりましょうね。自分一人の問題ではないわけです。「自分の人生どういきようと俺の勝手だ」というわけにはいかないんです。
 仏教では因果というでしょう。業を引くことも同じ意味になりますが、悟りの道理には安楽(浄土真宗では極楽といいます)が与えられるんですが、「俺の勝手だ」という道理には、地獄の苦しみが与えられます。ともに道理に叶ったことなんです。
 問題は、最初に戻りますが、身は在ると、見えるとする発想ですね。金子みすずさんは「みえないものでもあるんだよ」と詩っておられますでしょう。あの発想が大事ですね。見えないとされる心なんですね。心が見える身を規定してくるんです。
 ぶっちゃけいってしまえば、身はほっておいていいんですよ。まぁ、問いを貰ったことは、これは君が生れてくる背景に及ぶ迷いの歴史を背負っているということが問題になったということなんです。そして、何故苦悩するのかが、自分の人生の中で問いとして浮かびあがってきた。
 それまでは、自他分別は当たり前のことだったと思います。自分にとって都合のいいものは取り込み、都合の悪いものは切り捨ててきたんではないですか。それを我執と押さえているんですね。君だけの問題ではありません。人類共通の問題です。人間と環境の問題も基本は自他分別です。環境破壊が問題となり、いかにして環境を守るのかが議論されますが、議論を尽くしても根っこに自他分別がある限り問題の解決は有りません。
 自他分別を問うことが、自分の中から起こったということは、一歩世間の道理から外に出たことを意味しますね。ここが阿呆の第一歩なんです。阿呆とは、自他分別を超えたことを意味します。
 鏡が無かったら自分を写すことは出来ませんが、自分を写す鏡があったとしても、判断を下す自分が問題とならなければ鏡は無いのと同じですね。
 教えは無味乾燥なものです。真理とか、真如とか、無分別とかいろんな表現で教えが語られますが、門を叩く自分がいなければ、教えは何一つ応答してくれません。
 そういう意味では仏教は非常に厳しいものです。
 内と外ということも云われますが、外は内の表現なんですね。外が実体としてあるわけではないんです。内が内の限定表現として外を写し出しているんでしょうね。
 まあそこがですね、外ばっかしを追い続けてきたことに疑問符が付いたというところにですね、人間としての深さに気づいたということになるんだと思います。自覚には程遠いかもしれませんが、自分の生き方が大きく方向転換したということに変わりはないと思います。
 方向が転換したら阿呆できるんですよ。阿波踊りではないですが、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」とね。阿呆も独りよがりでできるもんではないんですよ。ともに生かされている大地を踏みしめて、人生を遊ぶが如く生きていければ、それが「遊煩悩林現神通」でしょう。我執からは絶対生まれてこない世界ですね。
 あまり深く考えないで.僕のコメントですが、僕自身が頷けるまで30年という歳月を要しました。
 宿題を与えられたと思って気長につきあってください。
問い(彼)今回は身と心の問題について述べたいと思います。身は物質であり、心は身と独立したもの。互いに分限を侵す事は無いと述べられていました。僕自身の考えとしては、心と呼ばれているものを実在するものとして人は他人と接しているのではないでしょうか。表情を見れば、何を考えているのか理解出来る。と言われる事があります。表情とは顔という身の一部を使った自らは表現力を持たない心の表現方法なのではないでしょうか。喜怒哀楽といった感情と呼ばれているもの心の変化を示したものではないか。しかし心自体では表現力はなく身といわれる物質を反応させることにより表現力を得ているのではないか。僕自身の話になりますが、よく笑わないと言われています。何故だか解りません。もしかすると人と言うのは、身という自分と心と言う自分がいて、対話しているのかと考えたりもしました。
 応答、いい問いをもたれました。僕も考えて見ます。身と心、ここは深いですね。身心一如といわれています。離れてはいないが分限を持っている、身は身として、心は心としてですね。では身は実体として有るのかといいますと、仮に有る、五官が互いによりそって身体を構成して、身体が身体として存在するものではない、ということなんです。これを仏教では、空と云う言いかたをします。或は縁起である、と。
問い(彼)縁と言うの不思議なものですね。人との縁は切って生きてきた人間です。僕は。生きてるか?死んでるかは本人次第ですね。
応答、自分の思い(自分が存在するという執着)からは、人を切っていきますね。しかしね、縁を切るのも縁なんですね。ここが深いんですよ。切っても切っても、切る底に流れているのが縁なんです。「生きてきた人間」ではなく「つもり」でしょう。つもりは北海道に投げましょう。つもりはどこにもありませんよ。生きてるんです、そして生きようとしているんです。つもりが問題やね。問題ばかり与えて申し訳ないんですが、大事な問題だからあえて言わせていただきました。
問い(彼)誰でも自分自身が一番の存在と思っていると考えます。ここでは自分自身と言う言葉を僕なりに分解しました。自分とは自らと分かれているもの、自身とはたったひとりと考えてみました。自らと分かれているもの。他人のこととなります。自分自身が存在するには他人が存在しなければなりません。他人の存在が自身の存在を証明するのではないでしょうか。他人と自身を繋ぐもの。縁と呼ばれるものでしょう。切る事もあれば、必死に切れないようにする事もあります。切るにしろ、繋ぐにしろ全ては自らの意識でしょう。ここでの意識とは、人間関係における利害関係としています。利益があるから彼らと縁を繋ぎ、利益がなければ縁を切るといった行動にでます。しかし人間は利益がなくとも人と付き合う事があります。理由は解りません。ただ人間には利害関係だけでなく、心の奥底にまだ知らない無意識ではない意識と言う物質がいるのではないかと思います。最後に諦めるのはよくないと言われていますが、完全に諦める行為は難しい行為ではないでしょうか?人を切る行為で切れ味鋭い刀であれば真っ二つに切れるかもしれませんが、錆びた刀であれば中途半端になってしまいます。中途半端に切れなかったというのは、後悔という感情ではないでしょうか。
応答、人として生まれてきた限り、「自分」という存在を頼りに生きているのは確かなことでしょう。僕も生まれてこの方自分を頼りに生きてきましたし、これからも自分を頼りに生きていきます。これは断言できます。こうして君のメールに返信しているのも自己中です。それ以外なにもありません。仏教が教えているのは、何も難しい教理をいうのではなく、現実に自分の存在は、自分で決めた存在であると云う認識だと思います。ですから、いつでも、どこでも、自分と云う存在において他者を裁いていくのでしょう。そのことを知っているのか、知らないのかという違いだと思います。錆びた刀は無いんですね。いつでも銘刀正宗ですよ。我はね。
 「あ」という気づきですが、そこが無意識の領域になるのでしょう。「貴方は自分を中心に動いていますね」と教えてくれたのが他者の存在ですね。その気づきが無意識の働きなんでしょうかね。利害関係といいますが、利害関係。利害が不一致する関係が現実の問題なのですね。現実を離れたらそれは空想の世界の出来事なんでしょう。そこからは教えは生まれてきません。際どいところでいうとですね、自分の天敵が、自分の殻を破ってくれる善き人なんですね。これは云うが易くです。「そんなことできん」ということを知らしめられることが大切なことなんです。僕のことをいくとですね、「出来ません」。君は出来ますか。出来んということにおいて自分を引き受けているんですね。もっというならば「出来ん」という歴史を引き受けて今の自分の存在があるのでしょう。切ったり、寄り添ったりしたけれどもそのすべてが今の自分を成り立たせているのですね。過去を背負った自分が今の自分なんです。ここが出発点でしょう。
 今ですよ。君が今どうなりたいのかです。それさえはっきりすれば道はみえてきます。今の自分以外に自分はいませんから、今、悔いのない人生を送っているのかどうかでしょうね。世間は、いうならば「悔いのない人生」を送るための素材でしょう。いつでも世間から、人間関係から、宿題をいただいて、自分が問われているのではないかと思います。
 そうでなかったら、仏教はセクトになります。「一切衆生」という発想は、人間を信頼している言葉ですね。一切、すべてです。セクトは切ります。主張の違うものは断固として抹殺しますね。これが分別の怖さでしょうね。
 最後に、「諦める行為は難しい」ということなんですが、その通りです。諦めきれんことを知るのが大切なんでしょう。そしたら、知ったらどうなるのかですが、そこが、おまかせ、なんです。いうならば以後の世界は越権行為になります。知ったら自然に、道すでに有り。開放されたと云うか、開かれた世界が現実に見えてくるのだと思います。
 諦めんことに諦めて諦める世界が開けて諦める。「どうなろうとこうなろうとこの道一つ」。こういうことだと思いますが。」

           よろしくお願いします。 河内 勉拝