ちょっと脱線していますが、今日は第八識と第七識との関係について考えていきます。
第二能変に入りますと、第五頌第三句に「依彼転縁彼」(本識である阿頼耶識を所依とし相続して、所依の阿頼耶識の見分を所縁として「我」と執する。)
「彼(阿頼耶識)に依って転じて彼(阿頼耶識)を縁ず」るのが第七末那識の特徴ですね。しかし、第七末那識は阿頼耶識から生起したものです。阿頼耶識の三義が述べられていましたが、能蔵・所蔵・執蔵という三つの意味を持っているのが阿頼耶識だと。蔵は一切種子識である、すべての経験を蓄積している蔵識ですが、ここから衆縁によって転じた具体的な働きが、眼・耳・鼻・舌・身・意ですね。六転識と云われていますが、その底に末那であるところの染汚識が、六転識に影響を与えているわけです。中心が染汚性を持っている第七末那識であるわけです。この第七末那識は阿頼耶識を所縁として現行するわけですが、現行した刹那に阿頼耶識の見分を「我」であると執するわけです。阿頼耶識は執せられるところだといわれているのです。執着したから駄目だ、受け入れないというわけにはいかないのですね。
第七識は、阿頼耶識の見分を本質(疎所縁)として、第七識の相分上に影像を立てるわけです。その影像を第七識の見分が認識を起こしているのですね。第七識の相分上に影像を立てた刹那(瞬間)に「我」と執していますから、見分は執された「我」を見ているという構造ですね。
現行識は、すべて第七末那識によって染汚されているといっても過言ではないのですね。染汚されていますから、名聞・利養・勝他に走っていくのは当然の帰結なわけです。否定してもですね、染汚の構造が自我中心にならざるを得ないわけです。ここに苦悩が私の上に現れてくるのですね。これが大事な所なんです。何故、苦悩するのか、ですね。
種子(無始以来虚妄に熏習されてきた自の内我に依るが故に) → 現行(七転識) → 種子(虚妄熏習) → 現行(有為有漏=苦悩の源泉)
このような不の連鎖を断ち切るのが聞法なんですね。聞法なくして不の連鎖は断ち切ることはできないのです。
ですから世間のなりわいはですね、種子 → 現行 → 種子の輪廻から解放されることはないのです。どれだけ平和の為に、国の安全の為にと議論を尽くしても、根本問題にメスを入れない限り、人間の傲慢性を暴くことは出来ないのでしょう。他人のことではありません。自らの傲慢性が白日のもとに晒されることが肝要だと思いますが、
いろはにほへと
ちりぬるを
わかよたれそ
つねならむ
うゐのおくやま
けふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす