実際の事例を挙げて、辺執見は倶生起はまた常見にも通ずることを証明する。
「謂く、禽獣(コンジュウ)の等きは我は常に在すと執じて、燃然(シネン)に長時の資具を造り集む。」(『論』第六・十六右)
つまり、禽獣などは、己は常に存在すると執着をして燃然(火が燃え盛るように激しい有り様)に長時の資具を造り集めるからである。
まあ、これは想像ですが、喩としては的を得ているのかもしれません。
鳥たちの生態を見ていますと、誰に教わったわけでもないのにですね、持って生まれた性質でしょうか、ちゃんとですね、無始以来の遺伝子を受け継いでいるのでしょうね。巣箱など、それは見事に造り上げていきますね。
何故このような行為に走るのかですね。「我は常に在すと執じて」と。自分は永遠に存在すると考えているからであると釈しているのです。「長時の資具」永遠に生活するための材料を集めていることから、このような行動に出るんだ、と。
この行動は、教えられたわけではありませんから、倶生起の働きであり、そして「常に在する」と云われますから、常見の働きである。つまりですね、これは倶生起の常見があるからである。
前段の喩を合わせてですね、倶生起には断見と常見があるというのが護法の正義になります。
第一師の釈には少しですね、見落としがあるというわけです。
この辺執見ですが、何故このような執着が起こるのかですね。ここには深い問題が隠されているのですね。
私が日常生活の中で絶対に放さないものが三つあります。一つは、名を轟かせたい(名聞)、二つ目は、利益を得て、自分の身をどこまでも養っていきたい(利養)、三つ目が、絶対他者には負けない(勝他)ということなんです。このことに血眼になって奔走しています。何故なんでしょうか。
大きく言えば、壊れるのが怖いという怯えからでしょうね。怯えを覆い隠すように名聞・利養・勝他に全力を傾けるのでしょう。これは私だけの話ではありません。すべての人の行動は似たり寄ったりなんですから、自他は対立概念の他にないんですね。そうしますと、この三つから放れなさいというのですが、放れられないということがありますね。どこまでいってもですね。
これは何を教えているのかと云いますと、名聞・利養・勝他を捨てなさいと、捨てることに於いて安楽がもたらされますよ、と。表面的にはそうなんですが、もっと深いところで、捨てられん自分に遇いなさい、ということなんでしょうね。そして、捨てられん自分を問い続けていきましょう。
高柳先生は、私たちは宿題をいただいているんですよ、と教えてくださいましたが、宿題には答えなければならない義務がありますね。宿題は嫌ですね。でもね、答えは出していかなければならないんですね。これが無始以来の宿題であり、宿題の深さが、未来の深さに連続しているということなんです。これを種子生現行・現行熏習子。三法展転因果同時と教えられているところですね。
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