「彼いい復難じて言く、何に為ってか『摂論」第三に阿羅漢の心は唯等無間縁のみ有るべしと云へるや。故に知んぬ色法にも亦此の縁有りということを。」(『述記』)
(『無性摂論』巻第三には色法にも等無間縁があると述べられているのは何故であろうか。)
『摂大乗論』に色にも亦等無間縁が有ると説かれているのは、これは縦奪(じゅうだつ)の言によるものである、という。この場合の、「縦」は認めることであり、「奪」は否定することを意味します。「縦体破之」(体をゆるしてこれを破す)、そして「奪体破之」(体をうばってこれを破す)といわれていますが、何を許し、何を否定するのかが問われています。そしてそのことにおいて何を表そうとしているのかですね。 本文を読んで見ます。
「然も摂大乗に、色にも亦等無間縁有る容しと説かるは、是れ縦奪(じゅうだつ)の言なり。謂く、仮に、小乗の色心いい前後として、等無間縁有りということを縦(ゆる)して、因縁を奪はんとの故なり。爾らずば、等の言は無用(むゆう)に成んぬ応し。(『論』第四・二十四左)
(そして『摂大乗論』(『無性摂論』巻第三・大正31・396c)に「色法にも亦等無間縁がある」と説かれているのは縦奪の言によるものである。つまり、仮に小乗の、色心には前後して等無間縁があるということを認めて、因縁を否定しようとしているための言である。そうでなければ、等の言は無用となるであろう。そうであるが故に、『摂大乗』の記述は色法に等無間縁が有るということを認めているものではない。)
前段に「等無間縁は心・心所のみである。」と説かれているのに、聖教には色法にも亦等無間縁が有ると説かれているのは矛盾するのではないか、という、問いかけに応じて「縦奪の言」を以て答えているのです。
「仮に小乗の」といわれている小乗は、『述記』によれば、小乗の上部の中座の経量部の説を指すと示されています。「是故色心前後相生。但應容有等無間縁。及増上縁無有因縁」(「色心が前後に生じることからただ等無間縁及び増上縁が存在することを認めるべきであるが因縁は存在しないのである」と。)
ここの記述は『述記』及び『樞要』・『演秘』も筆を尽くして説明を施しています。参考文献として大正蔵経より『述記』の記述を転写します。
「論。然攝大乘説至應成無用 述曰。下釋相 違。攝論所説是縱奪言。謂假縱小乘上座部中經部師色有等無間縁。奪彼因縁。彼無第八心。以色爲因故。即是設許色有此縁無因縁義。不作此解等言無用。謂前及後各有一法相似名等。今不相似亦名等故。此設縱言有二種義。一者彼部計色有此縁故。此文爲證 若爾何故攝論第一。云非經部師唯色等法名無間縁 第三卷中
約色之中含諸種子或及心故説有此縁。彼第一卷據彼無識・及種子故唯有色法。言不得成等無間縁。或第一卷是經部計。第三卷中上座部等義 二者以彼第一論文為正。此義爲正。經部本計非必許色爲無間縁。以不等故。第三卷中且設許有欲
奪因縁。非彼計色爲等無間。此中即是色・心前後前爲後因」
約色之中含諸種子或及心故説有此縁。彼第一卷據彼無識・及種子故唯有色法。言不得成等無間縁。或第一卷是經部計。第三卷中上座部等義 二者以彼第一論文為正。此義爲正。經部本計非必許色爲無間縁。以不等故。第三卷中且設許有欲
奪因縁。非彼計色爲等無間。此中即是色・心前後前爲後因」
この項 まだまだ続きます。
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