唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (52) 第十一 見断等門 (6)

2016-04-03 13:29:04 | 第三能変 随煩悩の心所
   四月八日は降誕会

 四諦に迷う行相の親迷と疎迷について説明されている科段ですが、随煩悩は根本相応門において明らかにされまたように、中随煩悩の二と、大随煩悩の八は十の根本煩悩と相応し、小随煩悩の十は五見と疑とは相応しないが、その他の根本煩悩と小随煩悩とが相応するのか否かについては詳細が説明されてありました。そのことを受けて本科段も説明されます。
 つまり、「見所断の中随煩悩や大随煩悩が四諦に迷う行相の親疎などは、すべて煩悩に説いた通りである」と。そこで煩悩の項において説かれていました三断分別門の復習をしてきました。詳細につきましては、煩悩の三断分別門(2015年4月21日~)を参考に学びを深めていただきたと思います。
 
 第十二は見断等の門になり、二段(中随煩悩と大随煩悩、そして小随煩悩)に分けられて説明され、初(中随煩悩と大随煩悩)の場合について更に三つに分けられ説明がされています。
 初めの見修所断門では「後の十はただ見所断と修所断のみであり、非所断ではない。」ことが明らかにされました。その理由は「二の煩悩と倶である」からということです。分別起と倶生起の煩悩と相応して起こるからであると説明されました。
 そのことの意味するところは、分別起の煩悩は見所断であり、倶生起の煩悩は修所断であるわけです。そして、中随煩悩の二と大随煩悩の八はこの二の煩悩と相応して起こると云われていますから、中随煩悩の二と大随煩悩の八にも分別起のものがあり、また倶生起のものもあることが分かるわけです。
 第二は迷諦総別門になります。行に迷う親疎を明らかにしているのです。 
 「見所断の者は、諦相に迷う或は総或は別の煩悩に随って倶に生ず、故に所応に随って皆四部に通ず。」(『論』第六・三十五右)
 諦相は、詳しくは諦行相で四諦の有様をいいます。尚、四部も四諦のことです。
 見所断の中随煩悩と大随煩悩は四諦の行相に迷う総迷の煩悩とまたは別迷の煩悩に随って倶(相応して)に生ずるのである。この為に、その所応に随ってすべて四諦に通じて迷うのであると云っています。
 つまり、煩悩の迷い方と同じ迷いかたをするということなのです。ですから次の科段では「親疎などは、煩悩に説いた通りである。」と述べています。
 「諦に迷う親疎の等きは、皆煩悩に説きてしが如し。」(『論』第六・三十五右)
 根本煩悩の十がすべて対象である四諦に直接的に迷うのが総迷ですが、十煩悩が個別に迷う在り方を別迷と云います。そしてその迷に数の総と行相の総の迷いがあり、別迷にも数の別と行相の別があります。行相の別の別が直接的に迷う親迷と間接的に迷う疎迷に分けられるのです。
 例えば、
 「疑と及び邪見とは親しく集等に迷う。二取と貪等とは苦に准じて知る応し。」と説かれていますが、疑・邪見・(不共無明も含む)は直接的に集・滅・道諦に迷う親迷の煩悩であると云えます。見取見と戒禁取見と貪・瞋・慢の四諦に対する迷い方は疎迷である、と。
 次回はまた復習になりますが、煩悩と随煩悩の関係を述べてみたいと思います。


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