唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (16) 第三講 その(1)

2011-01-16 22:35:27 | 唯信抄文意に聞く

  『唯信鈔文意』に聞く (16)

           蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 第三講 その(1)

          ー 称名のみ、往生を得 

 偈文の第三句目に入りまして、

  「『但有称名皆得往』というは、『但有』は、ひとえに御なをとなうる人のみ、みな極楽浄土に往生すとなり。かるがゆえに『称名皆得往』とのたまえるなり」

 ここで注意すべきは、「『但有』は、ひとえに御なをとなうる人のみ」とあるところであります。称名という問題ですね。称名が行であるという場合に、昔から行と信との関係がややこしく論じられるのであります。しかし、この「ひとえに御なをとなうる人のみ」とあるところを注意しますと、この「御なをとなうる人」ですね。称名といいましても、ただあるのではない。「となうる人」と。人のない称名というものも考えられるわけでしょう。南無阿弥陀仏ということも、いろいろ考えられますのは、となえる人のない称名というものが考えられますので、それで混乱するわけですね。となうる名号と、それからとなうる人ですね。となうる人という、この人あって行といえるのでありまして、人なくして行ということはありえないわけです。この人というところに信という問題が問われてくる。称えておるけれども、はたして称えたというだけで救われるのであろうかという問題が出てくるわけですね。それはどこまで追求しても救われるということの証拠はつかめない。その証拠は信より外にないわけですね。

 その信ずるということが、どういう内容であるかといえば、すなわち名号のいわれを受け入れたというこころでありますね。名号のいわれを受け入れたというときには、その受け入れた即座に、時をへだてず、所をへだてず、即座に往生が得られる。それが信。その信といわれたもの、そのことでございます。

 ところが、その人と切りはなされてしまって、名号とか、称名とかいう場合、南無阿弥陀仏という六字が考えられたり、称名といえば、口にあらわれる、口でとなえられるというような、そういう意味で考えられたりするわけで、口でとなえるところの南無阿弥陀仏によろずの功徳がおさまっているのだということになるわけですね。そうすれば、本当にそうであるかどうかということになります。本当かどうかは分からない。いつ分かるか。いつまでたっても分からぬわけですね。なぜかと申しますと、いわゆる往生できるかできないかという問題ですから、その功徳によって救われるということは、なにか目の前に奇瑞というものがあらわれるならば、その奇瑞を見て救いということを信ずることができるけれども、奇瑞も何もなければ、救われるということは、いわゆる往生ということですから、往生はいつするのかといえば、いのち終るときですね。いのち終る時に往生すると申しましても、いのち終る時は息が切れてしまうことでありますから、どうにもならんですよ。息が切れてしまったんではしようがないです。息が切れてからあとのことは、息が切れてみなくては分からんですね。往ってみなくては分からんですけれども、往ってみなくてはといって、往けるはずもないですし、しかたなく息が切れるんですから、そういうことになってしまいます。ですから、そこに奇瑞というものを立てねば、御利益ということを信じられないという問題がございます。そこに臨終来迎ということが、かりにもうけられるということも理解できるのであります。

 命終わるときに化仏が来迎せられる。阿弥陀如来、観音、勢至ですね。その来迎を拝むということが、つまり救いの証拠である。往生できるという何よりの証拠であるということになるわけですね。ところが、その来迎ということも、その場になってみなくては分からんわけですから、はなはだ危ないわけです。拝んだといたしましても、これもつくりものかもわからん。ほんとにあらわれたという証拠がないですね。化けてきたのかもしらん。人間がですね。両方にお稚児さんを二人つれて、真中に阿弥陀さんになってですね、それで息が切れるときは大体ボ-ツとなっていますからですね、そういうところへ音楽とともにふらりふらりあらわれて、「おまえを迎えに来たぞ」というてやるわけですよ。そうすると喜んで、安心して死ねるという。まあ、どうやらこうやら安心して死んだろうというようなことですね。ですから、そういう意味におきまして、この救いのしるしということが人間にはいつも要求せられますから、現代においても同じことでございますね。奇跡ということなくして誰もご利益ということを受け入れないわけでしょうね。とにかく何でしょう、今まで腰が立たなかった病人が、たとえばお題目となえたら腰が立ったなんてですね、そういうことがご利益があったということですね。これがご利益だと。これをつまり救いのしるしというわけですね。

 ですから、ここで問題として取りあげられますのは、いま「人」と、称する人、となうる人ですね。「御なをとなうる人のみ」というところに往生があると宗祖がいわれたことですね。「みな極楽浄土に往生すとなり」と。この往生は信心のことでございます。そのときに往生をうると。奇跡というなら、この御なをとなえたという刹那に往生が得られたという奇跡にまさるものはない。臨終まで待つ必要はない。来迎というものをたのむ必要はないというわけですね。

 そういう意味で、この短いお言葉ですけれども、この「但有」という説明は、ただ「称名だけで」といわれないで「称名する人のみ」と。ただ「称名するひと」でもいいのですけれども、「のみ」と。そこにつまりいわゆる信心ですね。ですから、人というところには、正定聚の機という、定まっておるということでございます。ここに問題があたえられております。

 みなをとなえて極楽に往生するということは、信心のほかにはありません。ふつうはいろいろ往生したといっても、常識上は死ぬときはみな各個バラバラで死んでゆくんですから、何時はじまりという具合にゆかんでしょうね。「あすの朝五時にみなまいってこい」というようなわけにはいかんでしょうね。こちらで決めるわけにはいきません。時間が決められるような往生なら、もっと前に往生しなくてはいけませんね。

 この問題は、学校へ入学するというようなことでしょうね。あの学校へ入学すれば、朝何時に家を出んならんということになりましょう。入学しないものは何時ということはないわけです。そういう意味で真実信心という問題が、この「人」というところで注意せられておると見てよいのではないかと思います。

 「かるがゆえに 『称名皆得往』 とのたまえるなり」ですから、このままが、 「称名皆得往」というままが、信心の内容になります。    (つづく)

 参考文献 

   親鸞仏教センター  http://www.shinran-bc.tomo-net.or.jp 
 『唯信鈔文意』 試訳をめぐって

を参照してください。 

         


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