唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (15)

2011-01-09 23:53:56 | 唯信抄文意に聞く

3mini 『唯信鈔』 重要文化財 西本願寺蔵

   広島大学 佐々木教室提供

  『唯信鈔文意』に聞く (15)

    蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

   ―  信心の智慧  ―

  「一切諸仏の智慧をあつめたまえる御かたちなり。」

 これは、誓願の尊号はですね、諸仏のすぐれたもの、それは智慧でございますね。もっともすぐれた諸仏の智慧、一切諸仏の智慧を選択摂取せられた。諸仏の智慧は平等でございます。したがって、集めても集めても智慧は平等ですね。平等でありますけれども、しかしその平等の智慧を差別の衆生にことごとくめぐむという、その智慧がつまり尊号になるわけですね。

 諸仏の智慧は、弥陀の智慧も、釈迦の智慧も、薬師如来の智慧も、智慧というたら平等の智慧です。なぜかと申しましたら、法性法身のほかにないんですから。一切衆生ことごとく平等である。餓鬼も畜生も、修羅も人間も、声聞縁覚もみなこれ平等である。法性法身ということですね。そのほかにないんです。いくら集めたって、集めんのと同じことです。けれどもそれを衆生にめぐむ。衆生にめぐむという、この利他の面に於いて 「諸仏にすぐれて」 と出てくるわけですね。諸仏にすぐれて、どのような悪人にも、どのような凡夫にも、一切諸仏の智慧をですね、無限に無限を足しても無限でありますからですね、一切諸仏の智慧をこの凡夫にですね、智慧もなにもないものにそっくりめぐむという、そういう智慧なんですね。そういう智慧のかたちを示されるのが、誓願の尊号であるということでございます。 「一切諸仏の智慧をあつめたまえる御かたち」。 「あつめたまえる御かたち」、 これは尊号ということなくしてはいえないのでございますね。尊号あって、はじめていえるのであります。

  「光明は智慧なりとしるべし。」

 光明というものは、単にものを照らすだけが光明とおもわれますから、それで、 「智慧なり」 と、特に仰せになった意味は、ここに言葉はありませんけれども、信心の智慧という意味で見てもよいかと存じますが、お言葉ありませんから、必ずそう見ねばならぬというわけでもありません。

 大まかに 「光明は智慧なり」 と、ここでいわれているものがらは、信心の智慧ですね。そうしますと、光明は信心の智慧であるとすれば、本体は無碍光仏。御かたちの本体は、というたら尊号ということになるわけであります。ふつうは光明というたら、照らされることしか考えませんですね。ですから智慧とおっしゃった。さとるのだと。さとる智慧なんですね。法をさとる智慧。法性法身をさとる智慧。ふつうはただ照らされるという。阿弥陀如来の光明に照らされるとこういうておるのですけれども、照らされるのは照らさないところがあるのです。照らされたときにはですね。太陽の光とこの智慧の光と同じことでして、照らすといえば必ず照らさぬところがあるのです。

 智慧ということになったら、これは照らされるだけでなくして照らす。照らされることが同時に照らすという意義ですね。照らす意義があることをいわれるのであります。

 以上で大体初めの二句 「如来尊号甚分明、 十方世界普流行」 ということを解釈されました。

 これは 『唯信鈔』 の 「五会法事讃」 の偈文の前のところに、

   「まず第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんという願をおこしたまえり。この願、ふかくこれをこころうべし。名号をもって、あまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆえに、かつがつ名号をほめられんとちかいたまえるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがうべからず。諸仏にほめられて、なにの要かあらん。」

 とありまして、それから、

  「『如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎』(五会法事讃)といえる、このこころか」

  申しまして、十七願の意義を示されるために、この偈文というものをあげられたということでありますから、宗祖の御釈もそういう意味におきまして、特にこの偈文をもとにして、真宗の根本教理をお示しになっておられるわけであります。

 ですからこういう文章で、われわれが心得ねばならぬことは、真宗の教相が宗祖によって教えられておる、門徒の人はその教えによって真宗の教相をならい、学習しつつ、そこに真実の教行証という意義にうらづけられて、自分達のこの生活の営みというものがあるのだという、そういう喜び、そういう大きな一つの世界観ですね。広い世界観というものをもつことができたという、こういうところを我々としては注意すべきであろうと存じます。  第二講 完了 次回から第三講、偈文の第三句目に入ります。


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