唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (11) 文意の特徴

2010-12-12 22:09:07 | 唯信抄文意に聞く

Imagescapwnqb7  

    親鸞聖人得度の地、青蓮院

ー 『唯信鈔文意』に聞く (11) ー

  蓬茨祖運述 『唯信鈔講義」 より

 文意の特徴

  『甚分明」というは、『甚」は、はなはだという、すぐれたりというこころなり。」

 「『甚」は、はなはだという」。これは文字の意味ですね。「すぐれたりという」ことは、やはりものがらが尊号ということによっていえるのでございますね。「はなはだ」というても、必ずしもすぐれたとはいえませんですね。いろいろなことに「はなはだ」は使われますから、「はなはだわるい」ともいえますですね。ですから「すぐれた」と必ずしもいえないのですけれども、ものがらが尊号であるということから、「すぐれたり」というこころが「はなはだ」というところにあるといえるのであります。

  「『分』は、わかつという、よろずの衆生とわかつこころなり」

 この「わかつ」ということが一番分かりにくいのですが、「よろずの衆生」ということは、これは詳しく申しますと、よろずの生死の衆生でしょうね。ですから、よろずの衆生とわかつ、生死の衆生とわかつということは、これはよろずの生死の衆生をたすけるということでありますけれども、生死の衆生を生死よりわかつわけですね。ですから、よろずの衆生の生死を断つわけでございます。よろずの衆生を生死よりわかつ。「よろずの衆生とわかつ」ですから、分かりにくいのですけれども、よろずの衆生を分かつわけですね。それは、生死の流れより衆生を分かつ。ですから生死を断ずるのですね。これは、先の無上大涅槃に至らしめるこころであります。生・老・病・死の四つの流れより衆生を分かちとることですね。そういう意味を述べられたのでありましょう。

  「『明』jは、あきらかなりという。十方衆生を、ことごとくわかちたすけみちびきたまうこと、あきらかなり。」

 「わかち」は、さきほど申しあげましたように衆生を助けることでございます。助けるについては、衆生の生死を断ずることなくしては、助けることはできません。衆生の迷い、無明煩悩こごとく、仏力を以て断ずるんですね。名号不思議の力を以て衆生の煩悩を断ずる、そういうことを分かつ、と。したがってそれはそのままたすけることなんです。たすけるこ自体が「みちびきたまう」ことですね。教えみちびくわけですね。そういうことが明らかであるということ。

  「たすけみちびきたまうこと、すぐれたまえりとなり」

とありますのは、先にありました 「大慈大悲のちかい」 であります。そのために誓願をもうけたもうた大慈大悲ですね。助けるというだけが大慈でなくして、助けるまでに誓願をもうけて導きたもうた仏力の遠くして深いことですね。そのことについて諸仏如来にすぐれておるということを述べたのが、この 「如来尊号甚分明」 という一句の意味である、というふうに解釈されております。

  「如来尊号甚分明」 という言葉自体は 「如来の尊号、はなはだ分明なり」と、それで一通りの意味は済んでしまうわけです。如来の尊号というものは、はなはだその功徳たるものは分明である。「分」 も 「明」 もあきらかですね。すぐれて明かである。功徳がすぐれて明らかだというだけで、その意味は済むのですけれども、そこに真宗の意義をはっきりと打ち出されてあることがこの 『文意』 の特徴であります。『唯信鈔』の方は、そこまで導いていくという文章でありますから、そこにニュアンスが違ってくるわけです。そのニュアンスの違いというものも、今この一句を説明されていう内容と、それから 『唯信鈔』 とを比較してみますと、その違いがわかります。

 そういうふうにして、この解釈がすすめられてまいりまして、次第に真宗の一流の法門ですね、真宗独自の教義の内容、教理の内容と申しますか、それを教えられております。その点を注意しつつ見ていってくだされば、 『文意』 に述べられてあります聖人のお言葉、そのおこころもやや心得やすかろうかと思われます。 次回配信は12月19日になります。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿