唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く

2010-11-28 21:16:06 | 唯信抄文意に聞く

      - 『唯信鈔文意』に聞く (9) -

 尊号の歴史 

  「『如来尊号甚分明』、このこころは、『如来』ともうすは、無碍光如来なり」

 はじめに、この 『如来尊号甚分明』 という偈文を引かれまして 「このこころは」 と、 一句のこころを述べようとせられますについて、そのうちで、この如来ともうすは無碍光如来である、と。

  「如来」とあっても、必ずしも無碍光如来とはいえない。釈迦如来もありますし、薬師如来もあります。あらゆる諸仏はみな如来でるといえますから、如来とあるからというて、無碍光如来といえないのでありますが、ここで如来といわれてあるのは無碍光如来のことだと、こういわれるのであります。

 ここに、はじめにありましたように、一つを選ぶ、二つならべざるこころなり、とあります意味がおのずからありまして、如来とあれば、諸仏如来かずかぎりなくあるわけですが、そのうちで無碍光如来という一仏を指すという意味であります。

  「『尊号』というは、南無阿弥陀仏なり。」

 「無碍光如来なり」といわれてありますから、尊号というのげ、また無碍光如来でもあるわけでありますけれども、偈文が如来・尊号と分けてありますから、特に如来と尊号と二つ分けて、それで南無阿弥陀仏の六字というものをここにまず述べられるわけであります。無碍光如来も尊号ですが、くわしくいえば帰命尽十方無碍光如来とか、南無不可思議光如来という、これは同じことでありますけれども 「南無阿弥陀仏なり」 といわれるのは、これはただ南無阿弥陀仏という六字を出してこられたわけでなくして、南無阿弥陀仏と申しますのは、もとは法然上人の 『選択集』 の冒頭、いわゆる標挙と申しますが、 『選択集』 の一番はじめに 「南無阿弥陀仏」 とおかれてあります。それから 「往生之業 念仏為本」 という割註が入っておりますが、それから、これは宗祖が法然上人からじきじきに書いていただかれた、その名号ですね。真影を写さしていただいおたときに書いてくださった 「南無阿弥陀仏」 と、 本願加減の文、 「若我成仏十方衆生」 以下の文ですね。そういう意味で、単に六字の名号をもってきたというよりも、宗祖がいただかれて、つたえられておるところですね。いただき、つたえられておる尊号の外にないということですね。自分が上人より頂戴したところの 「南無阿弥陀仏」 という六字より外に尊号というものはないのだと、こういう意味がうかがわれるのであります。

 したがって、この南無阿弥陀仏に歴史があるわけですね。南無阿弥陀仏「という尊号には歴史がある。仏陀の三経、浄土三経という歴史も、この尊号をもとにして説かれてあるということ。七祖の伝統もこの尊号をもとにしての伝統である。こういう意味がうかがわれるのであります。次に、

  「『尊』は、とうとくすぐれたりとなり。『号』は、仏になりたもうてのちの御なをもうす。」 

 「尊は、とうとく」という意味は、この上ないという意味になりますでしょうね。無上という意味になりますが、「すぐれたり」ということは、一切のものにすぐれておる。尊号というもののなかでも特にすぐれておると、こういう意味でございます。だから、すぐれておるということ、それ以上に尊いということですね。尊いということには、諸仏の名号以上に、そこに本願というものがある。いわゆる選択本願というものがあるわけでありますから、諸仏の浄土あるいは諸仏の行を選択摂取して、そして立てられた本願であり、その本願によって成就したところの尊号であると、こういう意味で「とうとくすぐれたり」ということがいわれるわけであります。

  「『号』は、ぶつになりたもうてのちの御なをもうう。 『名』「 は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうすなり」

 これは何をいわれるかと申しますと、 「仏になりたまうてのちの御な」 ということは、いわゆる仏としての徳が成就しておるということ。この尊号には、仏としての一切の徳が具足しておる、そなわりたりておるという意味をいわれるのであります。

 「『名』は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうす」というのは、これは本願です。「仏になりたまわぬとき」というのは、本願ですね。 「わがなを」 という。わが名というのは、仏になりたまわぬときのちかいの名ですね。ですから 「十方無量の諸仏にわがなをほめられん」 という、そういう本願ですね。その本願を指されているわけであります。

 ただ、号と名を二つに分けて 「号は、仏になりたもうてのちの御な」、「名は、いまだ仏になりたまわぬときの御な」というだけでは、どこかの辞書にでも、名というものにそんな意味があるか、号というのにそんな意味があるかと、そういう辞書でもくらんならんようなことになってしまいますが、辞書をくってもそういう訳は「はっきり出てこないと存じます。そういう意味ではなくて、号という字、名という字の意味ではなくて、名号、南無阿弥陀仏の名号という意味ですね。単なる名ではない。単なる号ではない。我々がものに名前をつけるという、そういう後からつけた名ではないということですね。

 そういうわけで、この仏の功徳が具足しておるということを、名号ということであらわし、それから名というところでは、本願をあらわす。本願によって誓われたところの名、その本願が成就して仏となられての名、と。号も名も一緒ですけれども、そういうふうに南無阿弥陀仏という名号について、果と因という意義をのべられておるわけであります。 (つづく) 蓬茨祖運 述 『唯信鈔文意講義』 より

           ー  雑感  ー

 私事なのですが、息子がアルバイトにいっていまして、やめたいといってきました。学生ですからやめてもいいわけですが、その理由が問題でしたので話し合いをしました。やめたい理由は「自分がアルバイトに行っている店の店長とのコミュニケーションがうまくいかず、気に入らない」というものでした。いろんな例をあげてやめたい理由を語っていました。ずっとうなずきながら聞いていたのですが、お父さんの言うことを少し聞いてくれるか、と、「話を聞いていると少し問題があるように思う。やめることに関しては反対はしないが、その理由が問題やな」と。「それは自分が働いて楽しい時はいい店であり、そうでないときは働きたくない店になる。 “なんでやろな” その理由がわかったらやめてもいい、と伝えました。少し考えさせて、といっておりましたが、どのような答えをもってくるのか楽しみです。

 私たちは順境のときには何も問題は発生しません。いうなれば人間としての心の成長が止まってしまいます。そこには知らず知らず自分だけの世界を作り出して関係性を破壊していっているのですね。そこに逆境という必然としての環境が出てくるのでしょう。逆境は自分が自分に出会える唯一の機会なのですね。息子のことでいいますと、「もう店にいくのがいやだな」と思っている “今” が大事な自分に出会える機会なのです。店長との関係がうまくいかないということには、店長に問題があるわけでなく息子の中に店長を受け入れる器がないということが問題なのですね。店長は息子に試練を与えてくれていると思っています。息子の答えはどのようなものまのかはわかりませんが、また報告させていただきます。

 仏陀といい、諸仏といい、仏教に出会えさせていただいたよき人というのは、自分にとって都合のいい存在ではないのですね。逆にいうなれば、自我心にとっては都合の悪い存在です。自我心と真っ向向き合い “本当の自己” に出会える機会が生存の意味なのでしょうね。


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