唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (13)

2010-12-26 15:47:32 | 唯信抄文意に聞く

Img_1467341_57430272_0 Img_1467341_57430272_7  安居院 聖覚法印ゆかりの地

 安居院 西法寺(京都・大宮通り鞍馬口下がる東入る新町)

  「聖覚は藤原通憲の孫で、父澄憲は類まれな雄弁と呪力で雨を降らせたとして有名な天台の僧でしたが、聖覚も父に劣らぬ説教名人で、法然の瘧(おこり)を直した呪力の持ち主でした。聖覚は法然上人の弟子で、無二の親友親鸞を法然上人に引き合わせました。一の谷の合戦で平敦盛を討った熊谷直実を法然上人に紹介したのも聖覚で出家した直実は蓮生坊を名乗りました。
 往時の安居院は声明、唱導、法説、読経で名高く、父澄憲は唱導の名手で安居院流唱導の祖です。聖覚はそれを盛んにし皇室や公家とのつながりも強く、法然、親鸞の浄土門の立教には陰に陽に協力されました。」(西法寺掲示板より)

       『唯信鈔文意』に聞く  (13)  

   蓬茨祖運述 『唯信鈔文意』講義より

無碍光仏の御かたち

「無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆえに、この如来の智願海「にすすめいれたまうなり。」 「無碍光仏の御かたち」と申します、この 「かたち」という意味ですね、これは、かたちということになったら有限なものですね。つまり限定、かぎられる。かたちというものはかぎられる。無碍光仏にはかたちがあるとすれば、有限なものだということになるわけですね。かたちがないものだ、無限だと。形が無いということになれば、このかたちのないものは、かたちを本としておるところの凡夫には、かたちのないものには到底ふれることはできない。しかし、かたちがあるものであったならば、これは有限であるから、それによってさとりを得たといたしましても、そのさとりは有限でなくてはならぬ。こういう問題があるわけですね。 いま無碍光仏は誓願によって、このかたちをもうけられた。一切衆生、かたちあるところの生死の衆生、よろづの衆生を、大涅槃に導くためのかたちをもうけられたのだと。これによって、有限なる衆生はふれることができるということですね。しかしふれたものが有限だけであるならば、限られたものにすぎませんから、大涅槃にいたるということはできない。つまり窮極には、窮極と申しますのは、おんづまり、おんづまりには、やはり生死を断じたとはいえないということになるわけですね。断じたか、断じないか、はっきりしないことになるわけです。ここにそういう難儀な問題があります。 ところが 「無碍光仏「の御かたち」 はどういうかたちかということについて、 「智慧のひかりにてまします」 と。無碍光仏の御かたちは智慧のひかり。まあ智慧もひかりも同じものですね。智慧のかたちでまします。智慧のかたちは、すなわち光のかたち。ここに先程来のもとになっているこの誓願の尊号ですね。誓願の尊号ということがあって、はじめてこの無限のものが有限のかたちをとりつつ、有限のものをおさめとり無限に帰せしめるという、そういうかたちというものが示されることであります。 あとになって出てまいりますが、 「無碍光仏の御かたち」というときには、ここには法性法身と方便法身という二種の身というものを如来は持たれるのだという。諸仏如来は二種の身を持たれる。或いは諸仏菩薩は二種の身を持たれる。これは、法性法身というのは、かたちのない方ですね。無限の意義をもっておるものですね。かたちがない。法性法身にはかたちがないいろもない。かたちもない。いろがあったり、かたちがあったりするということはつまり有限である。有限であるということは無上とはいえないわけです。無上という以上は、法性法身、かたちというものがない、いろもないという意味になります。方便法身というのは、これはかたちがあるわけですね。 この法性法身というものは、これは一切衆生ことごとく法性法身というものをもたないものはないといえるのでございますね。しかし、その法性法身ということに迷いを生じたのが衆生としての意義であります。いろもなければかたちもないところに、生まれ死んだrりすることはないわけですけれども、そこに生まれるということが衆生というものでございますね。衆生は生まれてきたもの。生まれるということがあれば死ぬるということがあるわけです。展転無窮である。限りがない。我々がこの世に生まれてきた、そうすれば死ぬという。生まれてこないときは何もなかった。死んでは何もなくなってしまう。こういうんですが、それが迷いなんですね。生まれてこなかったときには何もなかったのではない、生まれて今も何もないんです。死んでからなくなるのではない。死なぬ前も、何もない。今も、何もないものなのです。 今はあると思っておるでしょう。生まれぬさきは何もなかった。死んだらまた何もなくなってしまう。土にかえるだけで、自分というものはなくなってしまう。生まれぬさきもなく、死んであらもないなら今もない。ないものをあると思うとるだけです。それが衆生ですね。ですから、生死の衆生、と。これがそのまま法性法身であるということが、大乗の意義ですね。大乗における衆生というのは、生死がないという。生死のままが生死がないというのが大乗の衆生の意味です。 『論註』 にこのことが出ています。 「小乗では、あまたの生死を受けるがゆえに衆生という。大乗では、不生不滅の義を衆生という」と。 「不生不滅」 ということは、これ、ないということでしょう。生せず滅せずですから。生じたと思うておるものはないのだ。死んでさきがなくなると思いているものもないんだと。不生不滅の義を衆生という、と。こういうふうにいうておりますですね。大乗の意味の衆生というのは法性法身ですから、こらは阿弥陀如来に限らず、諸仏に限らず、あらゆる衆生ことごとく法性法身でないものはないということなんです。しかし、それに迷うておる。つまり迷うておるということは、そういうことの認識がないんですね。つまり、それを知ることができない。そういうことについて、我々は大きな無知を知恵としておるのですね。その衆生をたすけるために、法性法身より方便法身というものを出されるのだ、と。 「法性法身に由って方便法身を生ず」 ですね。 「方便法身に由って法性法身を出だす」 です。方便法身は法性法身にかえってくる。これが自利と利他にあたるわけですね。法性法身は自利、方便法身は利他ですね。 「この二つの法身は、異にして分かつべからず。 一にして同じかるべからず。」 二にして分かつべからず、です。一つであって同ずべからず。一つだとうて、法性法身一つということにしてしまったら、法性性身もなり立たなくなるのですね。 (つづく)

 参考文献 『浄土論註』 (聖全Ip298) 「衆多の生死を受くるを以ての故に名づけて衆生と為るが如きは、此は是れ小乘家の三界の中の衆生の名義を釋するなり、大乘家の衆生の名義には非ざるなり。大乘家に言ふ所の衆生は、『不增不減經』に言たまふが如し。「衆生と言ふは即是不生不滅の義なり」。何を以の故に、若し生有らば生じ已て復生に无窮の過有るが故に、不生にして生ずる過あるが故なり。この故に无生なり。若し生有らば滅有るべし。既に生无し何ぞ滅有らむことを得む。是の故に无生无滅は是れ衆生の義なり。『經』(維摩經卷上意)の中に「五受陰、通達するに空にして所有无し是れ苦の義なり」と言ふが如し。斯れ其の類なり。」 

 『教行信証』証巻(真聖p290・聖全1-p337) 

「諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。このゆえに広略相入して、統(つうずる)に法の名をもってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他にあたわず。」

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       我が身と共に生まれ

       我が身と共に生き

       我が身と共に死す                                  

       それが法蔵菩薩 

       いろもなくかたちもましまさぬ

                   誓喚

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