唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (97) 三断分別門 (11)

2015-05-03 22:24:56 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
  苦悩(自らが自らを縛って、執われて起してくる。その原因を十二縁起として表されている。)を縁として、目的地は涅槃であり、目的地に行く方法が八正道として教えられているのですね。

 本科段は、貪・瞋・慢はどのようにして起こってくるのかを説きます。実際ですね、身につまされますよ。教学の怖さといいますか、喉元に突き刺さってくるような鋭さを以て、「自己とは」を問うてきます。
 「自他の見と及び彼の眷属(ケンゾク)との於(ウエ)に次での如く、応(ヨロシキ)に随って貪と恚(イ)と慢とを起す。」(『論』第六・二十二右)
 自らの見(身見=薩迦耶見)に依って貪欲を起こし、他の見に依って瞋恚を起こし、自他の二見に依って慢心を起こす、何故ならば、己が見を恃んで、他の見を陵するからである。これを随応(いくつかの中の一つと応ずること)と云い、間接的に迷う縁ですから、疎迷である。
 別迷の中の、行相の別を説く中で、先に疑と三見及び二取の見に次いで、貪・瞋・慢が苦諦に迷う有様を説いています。
 自らの見(身見=薩迦耶見)に依って貪欲を起こすというのは、自分が自分を溺愛・渇愛・貪りの愛(貪愛)するということです。自らが可愛くて、自らを責めることなく自己愛に溺れて、自らの姿勢が見えない状態に置いていますから、自らを妨げる者に対して怒りを起こすのです、瞋恚ですね。
 これは、少し考えてみますと、至極当然の事です。自らが自らの見に貪愛するということは、他者は他者の見に対して貪愛を起こしているのですね。貪愛と貪愛がぶつかれば、そこに争いが起ります。そうしますと争いの直接の原因は、自己愛と云う貪愛が基になります。
 また、ここで云う眷属は、付属するもの、随うものという意味になります。自他の見に随って、引き起こされてくるのが慢ということになります。慢の発生は、ひとえに自他の見に随うということです。

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