「疑後三見唯分別起、六通倶生及分別起」(疑と後の三見は唯だ分別起である。十煩悩の中の六は倶生起と及び分別起に通じている。)
麤相門 ― 独頭に生起する貪・瞋・慢は、四諦の事に迷う。(事とは、現象的存在で、理によって生じる一切の有為法をいう。)
委細門 ― 「若し三見と疑と倶なるは亦四諦の理に迷うと名づく。」(理とは、現象的存在を貫く法則を云う。縁起の理・真如の理で、存在の真実のありよう。)
ここで説かれている麤相門は大雑把にいえば、貪・瞋・慢は、四諦の事に迷う煩悩であるということなのですが、しかし、事は理によって生じてくるものなんですね。ですから私たちが日常の中で、むさぼりや怒りや慢心を起こしている時には、我見や辺見や疑と倶にして起こしていることなのです。我見と辺見と邪見によって自分を縛り、、疑は自分を信ずることができないということでしょう。つまり、三見と疑を依り所にして表面化してくる煩悩ということになりましょうか。
麤相門(表層)
―――――――――――――――――――
委細門(麤相門の背景)
十の煩悩は、どれがどれと相応(倶起)するのかは、自類相応門を参考にしてください。(2014年7月11日~8月11日の投稿)
前科段までは分別起の煩悩の断についての説明でありました、倶生起の煩悩の断はどうなるのかという問いに対して答えていきます。「六通倶生及分別起」の倶生起のぼんのうの断についての説明になります。
初は、迷理の煩悩の断について。
後に、迷事の煩悩の断について。
(初)
「倶生の二の見と、及び彼と相応する愛と慢と無明とは、苦諦に迷うと雖も、細にして断じ難きが故に、修道にして方に断ず。」(『論』第六・二十二左)
倶生起の煩悩の二の見である薩迦耶見と辺執見と、及び二の見と相応する愛(貪)と慢と無明(癡)とは、親しく苦諦の理に迷うとはいえ、その行相は細にして断じ難いので修道において断ずるのである。細かい議論はさておき、倶生起の煩悩は修所断であるということですね。
倶生起の薩迦耶見と辺執見と、これに相応する貪・慢・癡は迷理の惑である。「細にして断じ難きが故に」と修所断である理由を述べています。迷理の惑である理由と修所断である理由を「細難断」の言葉を以て示しています。
(つづく)
麤相門 ― 独頭に生起する貪・瞋・慢は、四諦の事に迷う。(事とは、現象的存在で、理によって生じる一切の有為法をいう。)
委細門 ― 「若し三見と疑と倶なるは亦四諦の理に迷うと名づく。」(理とは、現象的存在を貫く法則を云う。縁起の理・真如の理で、存在の真実のありよう。)
ここで説かれている麤相門は大雑把にいえば、貪・瞋・慢は、四諦の事に迷う煩悩であるということなのですが、しかし、事は理によって生じてくるものなんですね。ですから私たちが日常の中で、むさぼりや怒りや慢心を起こしている時には、我見や辺見や疑と倶にして起こしていることなのです。我見と辺見と邪見によって自分を縛り、、疑は自分を信ずることができないということでしょう。つまり、三見と疑を依り所にして表面化してくる煩悩ということになりましょうか。
麤相門(表層)
―――――――――――――――――――
委細門(麤相門の背景)
十の煩悩は、どれがどれと相応(倶起)するのかは、自類相応門を参考にしてください。(2014年7月11日~8月11日の投稿)
前科段までは分別起の煩悩の断についての説明でありました、倶生起の煩悩の断はどうなるのかという問いに対して答えていきます。「六通倶生及分別起」の倶生起のぼんのうの断についての説明になります。
初は、迷理の煩悩の断について。
後に、迷事の煩悩の断について。
(初)
「倶生の二の見と、及び彼と相応する愛と慢と無明とは、苦諦に迷うと雖も、細にして断じ難きが故に、修道にして方に断ず。」(『論』第六・二十二左)
倶生起の煩悩の二の見である薩迦耶見と辺執見と、及び二の見と相応する愛(貪)と慢と無明(癡)とは、親しく苦諦の理に迷うとはいえ、その行相は細にして断じ難いので修道において断ずるのである。細かい議論はさておき、倶生起の煩悩は修所断であるということですね。
倶生起の薩迦耶見と辺執見と、これに相応する貪・慢・癡は迷理の惑である。「細にして断じ難きが故に」と修所断である理由を述べています。迷理の惑である理由と修所断である理由を「細難断」の言葉を以て示しています。
(つづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます