麤相門の結び
「諦に迷う親疎の麤相是の如し。」(『論』第六・二十二右)
四諦に妙麤相門はいじょうの通りである。
「未だ理を盡さざるが故に、五十八に説く、亦麤相なり。」(『述記』第六本・六十二左)
以上は麤相(おおまかなありよう)によって説いてきたのである。『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623c~624a)に説かれている所論と同じであるが、これは未だ理を盡していないので『瑜伽論』の内容は麤相によって説かれているのである。
「行相の別」の迷いについての委細門が説かれます。
「委細(イサイ)に説けば・・・」 細かく、詳しく説くならばと云う、
「委細に説かば、貪・瞋・慢との、三が見と疑と倶に生ずるは、応(ヨロシキ)に随って彼が如し。」(『論』第六・二十二左) 委細に説くならば、貪と瞋と慢との三つが、三が見(薩迦耶見・辺執見・邪見)と疑と倶に生じる場合は、よろしきに随って彼(疑と薩迦耶見・辺執見・邪見)のように理解すべきである。
「述して曰く。疑と三見と無明との五法は親しく諦理に迷う。二取は疎遠なること前に定んで説くが如し。且く苦諦の下の貪瞋慢との三は、若し独頭に起こる見を縁じて生ずるをば疎遠なること前に説くが如し。」
麤相門に於いては、疑と三見と無明の五法は苦諦に対して親しく迷う煩悩である。(親迷)
疑と邪見と不共無明は、親しく集諦・滅諦・道諦に迷う煩悩である。(親迷)
二取は苦諦に対しても、集諦・滅諦・道諦に対しても疎迷である。
苦諦に対して疎迷である貪・瞋・慢と相応する時は、集諦・滅諦・道諦に対しても疎迷となる。つまり、貪と瞋と慢は四諦に対して疎迷である。「貪瞋慢との三は、若し独頭に起こる見を縁じて生ずるをば疎遠」であるというの が、麤相門において説かれていたのです。
本科段の、委細門に於いて論ずるならば、
貪・瞋・慢の四諦に対する迷い方は、倶に生起する疑と三見の煩悩の親迷か疎迷かということになります。貪・瞋・慢が三見と倶に生起する場合と、貪・瞋・慢と、疑と三見が倶に生起する場合は、疑と三見の迷い方と同じになるので、そのように理解するべきである、という。
「貪と慢と三法(薩迦耶見・辺執見・邪見)と倶なり。瞋は疑等の四と倶起するは、応に随って彼が如く、亦親しく諦に迷うと名づく。慢と貪と我見と倶生して、滅道の下の煩悩の後に於て起こるを亦無漏に迷うと名づく。瞋は疑と倶起し、或は独り起こる。これは数の総に約す。」(『述記』)
① 貪・瞋・慢の中、貪と慢は薩迦耶見・辺執見・邪見と倶起する為に、三見の迷い方と同じになる。疑は除かれる。
② 瞋は疑と三見と倶起する為に、疑と三見の迷い方と同じになる。
(つづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます