唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (96) 三断分別門 (10)

2015-05-02 14:49:44 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
  

 二取(見取見と戒禁取見)について
 「二の取は彼の三の見と戒禁(カイゴン)と及び所依の蘊(ウン)とを執じて勝なり能浄(ノウジョウ)なりと為す。」(『論』第六・二十一右)  二つの取(見取見と戒禁取見)は、かの三つの見(薩迦耶見・辺執見・邪見)と戒禁取見と及び所依の五蘊とに執着して、二取は勝れたものであり、よく浄らかにするものであると考える。
 説明でもわかりますように、二取は、薩迦耶見・辺執見・邪見と戒禁取見と及び所依の五蘊とに執着して、その上に苦諦に迷うことを明らかにしているのです。つまり、直接的に苦諦に迷うのではなく、間接的に苦諦に迷うという迷い方であって疎迷と云われています。
 戒禁取見〈ziila-vrata-paraamarza〉
 「五には戒禁取。謂く諸見と随順せる戒禁と及び所依の蘊とのうえに執して最勝なりと為し、能く清浄を得すという。無利の勤苦が所依たるを以て業と為す。」(誤った見解にもとづく外道の戒を取り入れて、そのような戒を、正しい戒であると思い、その戒を説く人を最も勝れた者であり、その戒を保つと清浄な涅槃を得る原因であると考える見解であって、いたずらに身を苦しめる心である。) 
 これは戒禁〈かいごん〉されたものを勝れた正しいものと誤って執着する考え方である。これに非因計因と非道計道との二を立てる。すなわち、実際に因果の正しい立場に立てば因とならないものを因と誤って考え、それを勝れたものと執ずる見である。仏教の正しい菩提(さとり)に対して、それを達成する正しい因をとらず、間違った因を正しいものと誤って執着するようなものである。
 非道計道とは涅槃の道に非ざるものを涅槃の道と間違え、それを正しく勝れたものと誤って執着することである。このことは一般に注意すべきことで、ある立場の実現には、それを達成する正しい方法があるはずである。また、この立場に基礎付けられた正しい方法によってこそ、その立場は実現されるのである。
 自らの目的の達成は目的を達成する正しい方法の自覚自行によるので、立場と方法、思想と実践とが別々であっては、何も成功しない。悪見の中に、戒禁取見を説くのは、仏教の正しい因果論をふまえての説であることに注意しなければならない。(仏教書大辞典より)
 自分の見方が最勝であるという見解や、最後は自分の行っている戒律が最高のものであるという思い込みですね。我執を中心に見ていく在り方が根本煩悩といわれるものです。このように煩悩は自分が一番正しいと執着を起こして苦を自分で招いてくるのです。苦の因を他に求めながら実は自分の中から起こしている。
 2014/6/7~8日のブログより
 「「述して曰く。謂く諸見に依って受ける所の戒なり。此の戒を説いて勝と為す。諸見に順ずる戒と及び戒の所依の五蘊の眷属を執して勝と為す。及び能く涅槃の浄を得と云うは戒取と名く。戒は即ち是れ禁(イマシム)なり。戒は性と遮と別なり。この戒に由って一切の外道は抜髪(バツハツ)等の利無き勤苦を受持するが故に。戒と及び眷属とを除く。外に余の一切の法は勝なり及び能く因と為って清浄を得と執す。戒は勝と執せず、但だ能く因と為ると言うと雖も、並びに戒取に摂するに非ず。・・・」(『述記』第六末・二十七左)
 戒禁取見とは、つまり、(戒禁とは、外道が説く戒と、その規範)諸々の悪見に随順する戒禁と及びその所依の五蘊とに於いて執着して最勝であるとし、そのことがよく清浄を得ると考えるのである。
 戒禁取見は、利益が無く、勤苦の所依となることを以て業とする心所である。この考え方は外道の説が悪いといっているのではないんですね。自己中心的に動いていきますと、外道の立てる戒を勝れたものであると思い込みます。間違いを起こすんですね。まさに政治・経済そのものでしょう。政治・経済が戒になりますね。その戒を説く人を尊敬しますし、その戒を守って生活の指針とします。しかしですね、自己改革といいますか、自己に対するプロテストがありませんから、いたずらに身を苦しめるものであると説かれているわけです。

 仏法を聞いていてもですね、仏法を楯にとって裁くということが起ってきます。諸刃の剣といいましょうか、自分が見えてこない、見えてこないと、人を裁くのですね。裁いていることさえ見えないですからね。深い問題が隠されています。人を社会を問うているわけではないんです、他を社会を縁として自分が問われているのです。戒禁取見はまさに諸刃の剣の切っ先が問われている見解であると思います。

 その為に、涅槃と菩提を障えるわけです。煩悩障・所知障といわれていました。障礙ですから、真理に反逆しているわけです。そうしますと、当然に苦を生み出してきます。利を生み出さないわけですね。「利無き勤苦」(無利勤苦)と教えています。菩提を得る勤苦は「利有る勤苦」(有利勤苦)と称されます。

 本科段は、見取見と戒禁取見が苦諦に迷うのは、どのようにして迷うのか、何に迷うのかを説明しているのですね。『述記』には端的な説明が述べられています。
 「見・戒の二取は、
  前の三見と及び倶時の蘊とを執して、勝なり能浄なりと為す、是れ見取なり。
  彼と倶なる戒と及び蘊とを執して、勝なり能浄なりと為す、是れ戒取なり。・・・」
 また、『演秘』には
 「此れ等は三見等を縁じ起すを用つて、苦集の理に望むるに所隔有るが故に、これを名づけて疎と為す。是れ重縁の惑なり。」(別して行相の別を釈す。麤相)と釈されています。
 見取見は、「三見(薩迦耶見と辺執見と邪見)と及び倶時の蘊とを執して」と云われてますが、倶時ですから同時に、三見と同時に存在する五蘊に執着して、最勝であり、能浄であると考え執着をすることにおいて迷うという在り方です。
 戒禁取見は、「(三見)と倶なる戒と及び蘊とを執して」、三見に随順する戒禁と所依の五蘊に執着してという意味になります。(誤った考えに随順して、誤った戒)を最勝とし、能浄であると考え執着をすることにおいて迷うという在り方です。
こういう迷いの在り方を疎迷というのですね。重縁の惑と名づけられています。
 

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