今日は楽しい楽しい子供の日。
昨日のブログに対してコメントを寄せていただきました。有難うございます。
「自己は他者に対して比較的優位ではなく、絶対的優位でないと気がすまない。全ては自己保身。僕の例で言いますと、見合い断ったのは相手に嫌われる。という恐怖心から。相手を見ていることに執われ、見られていることに気がつかない。感想としては離れているでしょうが、全ては自己が見ているものしか信用出来ず、他者が見ているものは見えない。と言うより見ているものは同じでも見えかたは違う。気がつかない所ですね。結局は他者の事を思ってとった行為であっても自己保身ということになるのでしょう。悪い思い込みは直さねばと思います。ただ自己愛が無ければ他者をも愛することができないのではないかと思うのですが。自らを責めているつもりで、相手を責めている、気が付かないところです。」
「コメント有難うございます。自分を愛するように、他者もまた、自分を愛している、という目線は大事ですね。この目線があってこそ、初めて人を愛することができるのでしょう。その極みが、如来の大悲といわれているんでしょうね。
真(マコト)に、他者を愛することのできる人は、真(マコト)に、自分という自己を大切にしている人でしょう、そのように思っています。」
今日は、無明(癡)が苦諦の理に迷うことの理由を述べる所論です。
癡について、2014/3・20の投稿を再録します。
「云何なるをか癡と為す。諸の理と事とに於いて迷闇なるを以って性と為し。無癡を障えて一切雑染の所依たるを以って業と為す。」(『論』第六・十三右)
道理と事実です。道理によって事実が成り立っているのですが、それがわからないということです。諸行無常・諸法無我は道理ですが、それが頷けないので道理でない我を立てて生きている。それは闇であり迷いであると教えています。生きているのも道理ですが、死もまた道理なのです。「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」とは、清沢先生の教えであります。
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきなばかの土へはまいるべきない」とは親鸞聖人のお言葉でした。命は与えられたものであって私有化できるものではないのですね。「生かされてある命」なのです。縁によって生かされている。そこにですね、命の大切さが教えられているのではないでしょうか。しかしながら私たちは道理と事実に背いているわけです。それを迷闇となり雑染の所依となるのです。すべてが自己中心に考えていくということです。「私が・私が」と我執から出発するのですね。迷・闇によって経験のすべてが執着的経験となる。その根拠になるのが癡という煩悩なのです。それが闇の中の出来事であると教えているのです。理と事に於いて無痴であるところから自己の内に貪りをおこし、外に対して自分が無視されたと、怒りをぶつけるのです。これが貪・瞋の煩悩であり、貪・瞋の根拠(所依)が癡の働きである、と教えられているのです。
「論。云何爲癡至所依爲業 述曰。於理事者。謂獨頭無明迷理。相應等亦迷事也。」(『述記』第六末・四右。大正43・444b)
(「述して曰く。理事と云うは、謂く、獨頭無明は理に迷い、相応等も亦、事に迷うなり。」)
四諦の理に迷うのは、独頭(ドクズ)の無明(独行無明)のはたらきであり、現象の真実の相に迷うのは、相応無明(共無明)の働きである、と云われています。
貪・瞋・癡等の根本煩悩と相応する無明は、理と事に迷う無明であり、独行無明は根本煩悩とは相応しない無明である。この無明が、主と非主に分けられて説明されます。主独行無明は、ただ理に迷う無明であり、非主独行無明は、理と事に迷う無明であるとされます。
「疏。獨頭無明迷理等者。問前第五云。獨行無明而有兩種。謂主・非主。非主無明通於見修。云何今判唯迷理耶 答且然。瑜伽是主者説。五十八云。又此無明總有二種。一煩惱相纒相應。二獨行。若無貪等諸煩惱纒。但於苦等諸諦境中。不如理作意力故鈍惠士夫諸不如實簡擇。覆障纒裏闇昧等心所性名獨行無明 又非主者。多迷理起。從多分言。由斯疏中不言唯也。」(『演秘』第五本・三十三右。大正43・917b)
(「疏に、獨頭無明迷理等とは、問う、前の第五に云く。獨行の無明に兩種有り、謂く主と非主なりと。非主の無明は見修に通ずと云う。
云何ぞ今判じて唯理に迷うと云うや。
答う、(第一釈)且く然なり、瑜伽は是れ主なる者のみを解く。五十八に云く、又此の無明に総じて二種有り、一には煩悩と相纒相應す、二は独行なり、若し貪等の諸の煩悩の纒無く、但苦等の諸の諦境の中に於て、不如理作意の力の故に、鈍慧の士夫は諸の実の如く簡択(ケンチャク)せず、覆障(フクショウ)し纒裏(テンカ)し闇昧(アンマイ)なる等の心所の性を独行無明と名づくと。
また(第二釈)非主とは多く理に迷って起こすを以て多分に従って言う。斯れに由りて疏の中には唯と言わざるなり。」)
この項について、第二能変 末那識の存在証明の二教六理証において不共無明が論じられています。2012/4・3/の記述より抜粋し記します。
不共無明に総じて二種あることを述べる。
恒行不共無明と独行不共無明について、その相違点を説明されています。
「不共無明に総じて二種有り。一には恒行不共、余の識には無き所なり。二には独行不共、此の識には有るに非ず。」(『論』第五・十一右)
(不共無明に総じて二種類ある。一つには恒行不共無明であり、末那識以外の他の識には存在しないものである。二つには独行不共無明であり、この末那識には存在しないものである。)
無明には大きく、相応無明と不共無明の二つに分けられます。ここで述べられている無明は不共無明で、これが大きく、恒行不共と独行不共に分けられます。そしてここで述べられていますように、恒行不共は第七末那識とのみ相応し、他の識とは相応しないものです。一切の凡夫において無始より以来、恒に働きつづけているところから恒行といわれ、恒行という点から、末那識以外の他の識に相応して働く無明にはないから不共といわれる。もう一つが、独行不共で、これが第六識と相応して働く無明で、末那識には存在しない無明です。貪・瞋等の根本煩悩と相応せず、第六意識と相応して働く無明で、ただ独り働くところから独行不共無明といわれる。『瑜伽論』巻第58(大正30・622a)に詳細が記されています。
「又此無明總有二種。一煩惱相應無明。二獨行無明。非無愚癡而起諸惑。是故貪等餘惑相應所有無明。名煩惱相應無明。若無貪等諸煩惱纒。但於苦等諸諦境中。由不如理作意力故。鈍慧士夫補特伽羅諸不如實簡擇覆障纒裹闇昧等心所性。名獨行無明。」(『瑜伽論』巻第五十八)
また、『瑜伽論』巻第五十八には、この文に先立って、無明について説明があります。「無明とは謂く所知の真実なる覚悟に於て、能く覆い能く障える心所を性と為す。」と。「又此の無明に総じて二種あり、一には煩悩相応無明、二には独行無明なり。愚癡無くして而も諸惑を起すに非ず、是の故に貪等の余惑相応する所有の無明を、煩悩相応無明と名づく。若くは貪等の諸の煩悩の纏(てん)無く、但だ苦等の諸の諦境の中に於て、不如理なる作意の力に由るが故に、鈍慧の士夫補特伽羅の諸の実の如く揀擇(けんちゃく)せず覆障(ふくしょう)し纏裹(てんか)し闇昧(あんまい)なる等の心所の性を独行無明と名づく。
• 纏(てん) - 煩悩の異名。煩悩は心をまとい、おおうから纏という。
• 纏裹(てんか) - まとわりからむこと。如実に簡択しない覆障・纏裹・闇昧等の心所性を独行無明と名く。
「論。不共無明至此識非有 述曰。下顯差別有三。一彰二別明識有・無。二引證。三大小異。此初也。此總凡解。不共無明顯此識者。一恒行不共。此七倶是。今此所諍。餘識無也 其第二獨行不共。則與忿等相應起故名爲獨行。或不與餘倶起無明獨迷諦理。此識非有爲成此後所説無明。」(対象・43・411a)
「述して曰く。下は差別を顕す。一に二が別なることを彰して識にも有無なることを明かす、二には証を引き、三に大・小の異を云う。此れは初なり。此れは総じて凡て不共無明を解して、此の識にも有なることを顕す。一に恒行不共と云うは、此の七と倶なる是れなり。今此に余識には無しと争う所なり。其の二の独行不共の、則ち忿等とのみ相応して起こるが故に、名けて独行と為す。或は余と倶起せず、無明は独り諦理に迷うなり。此の識には有るに非ず。此の後の所説の無明を成ぜぬが為に。」(『述記』第五末・二十三右)
又、『樞要』巻下本・二十五右には
「不共無明有二。一與根本倶恒行一切分。餘識所無名不共。二不與根本倶名不共。然復有二。一與小・中・大隨煩惱倶。不與根本惑倶名不共。二不與小隨惑及根本倶。與中大隨倶名不共。隨其所應後二亦通上界。然與相應多小上下界別 然爲三句。一唯見斷。謂獨行四諦下者。二唯修斷。謂第七識者。三通見修。謂忿等相應。」(大正43・640a)
「不共無明に二有り。一に根本と倶に恒に一切分に行ずる、余識に無き所を以て不共と名く。二には根本と倶ならざるを以て不共と名く。然して復二有り。一には小・中・大の随煩悩と倶にして、根本の惑と倶ならざるを以て不共と名く。二には小随惑と及び根本と倶ならずして、中・大の随と倶なるを以て不共と名く。其の所応に随って後の二も亦上界にも通ず。然るに相応する多少は上下界と別なり。然るに三句を為る。一には唯だ見断と云わば、謂ゆる独行の四諦の下の者。二には唯だ修断と云わば、謂ゆる第七識の者。三に見・修に通ずるは、謂ゆる忿等と相応するなり。」 と。
『述記』・『樞要』の記述は『論』の補足説明になりますが、再度まとめてみますと、不共無明に二つ有り、(與根本倶恒行一切分の)恒行不共無明と、(不與根本倶名不共の)独行不共無明である。独行不共無明がまた二つに分けられ、一つは根本煩悩と相応せず、小・中・大の随煩悩と相応する非主独行不共無明と、忿等の十種と根本煩悩と相応せず、中・大の随煩悩と相応する主独行不共無明とに分けられる。主独行不共無明は見道所断であり、非主独行不共無明は修道所断である。小随煩悩の忿等は見断にも通ずると説明がなされています。」
この所論をうけて、本科段を読み解きたいと思います。
「相応の無智は九と与(トモ)(或は、與)に同じく迷う。不共の無明は親しく苦の理に迷う。」(『論』第六・二十二右)
相応の無智は、九の煩悩とともに同じく迷うのである。不共の無明は、親しく苦諦の理に迷うのでる。
相応の無智=相応無明 ― 貪等の九の煩悩と相応する無明である。
無明(癡){
不共の無明=不共無明 独行不共無明 ― 煩悩と相応しない。
{
恒行不共無明 ― 第七末那識相応の煩悩と相応する。(第六意識相応の煩悩とは相応しない。)
本科段で問題にしているのは、一つは、相応無明です。相応無明はすべての煩悩と相応しますから、他の九の煩悩が苦諦の理に迷うというのであれば、相応無明も苦諦の理に迷うわけです。その中で、薩迦耶見・辺執見・邪見と相応する場合は、所謂、親迷になります。また、その他の煩悩と相応汚する場合は、所謂、疎迷ということになります。
もう一つの問題は、不共無明ですが、この無明は単独で生起する無明ですから、直接的に苦諦の理に迷うということになりますから、親迷です。 また明日にします。
昨日のブログに対してコメントを寄せていただきました。有難うございます。
「自己は他者に対して比較的優位ではなく、絶対的優位でないと気がすまない。全ては自己保身。僕の例で言いますと、見合い断ったのは相手に嫌われる。という恐怖心から。相手を見ていることに執われ、見られていることに気がつかない。感想としては離れているでしょうが、全ては自己が見ているものしか信用出来ず、他者が見ているものは見えない。と言うより見ているものは同じでも見えかたは違う。気がつかない所ですね。結局は他者の事を思ってとった行為であっても自己保身ということになるのでしょう。悪い思い込みは直さねばと思います。ただ自己愛が無ければ他者をも愛することができないのではないかと思うのですが。自らを責めているつもりで、相手を責めている、気が付かないところです。」
「コメント有難うございます。自分を愛するように、他者もまた、自分を愛している、という目線は大事ですね。この目線があってこそ、初めて人を愛することができるのでしょう。その極みが、如来の大悲といわれているんでしょうね。
真(マコト)に、他者を愛することのできる人は、真(マコト)に、自分という自己を大切にしている人でしょう、そのように思っています。」
今日は、無明(癡)が苦諦の理に迷うことの理由を述べる所論です。
癡について、2014/3・20の投稿を再録します。
「云何なるをか癡と為す。諸の理と事とに於いて迷闇なるを以って性と為し。無癡を障えて一切雑染の所依たるを以って業と為す。」(『論』第六・十三右)
道理と事実です。道理によって事実が成り立っているのですが、それがわからないということです。諸行無常・諸法無我は道理ですが、それが頷けないので道理でない我を立てて生きている。それは闇であり迷いであると教えています。生きているのも道理ですが、死もまた道理なのです。「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」とは、清沢先生の教えであります。
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきなばかの土へはまいるべきない」とは親鸞聖人のお言葉でした。命は与えられたものであって私有化できるものではないのですね。「生かされてある命」なのです。縁によって生かされている。そこにですね、命の大切さが教えられているのではないでしょうか。しかしながら私たちは道理と事実に背いているわけです。それを迷闇となり雑染の所依となるのです。すべてが自己中心に考えていくということです。「私が・私が」と我執から出発するのですね。迷・闇によって経験のすべてが執着的経験となる。その根拠になるのが癡という煩悩なのです。それが闇の中の出来事であると教えているのです。理と事に於いて無痴であるところから自己の内に貪りをおこし、外に対して自分が無視されたと、怒りをぶつけるのです。これが貪・瞋の煩悩であり、貪・瞋の根拠(所依)が癡の働きである、と教えられているのです。
「論。云何爲癡至所依爲業 述曰。於理事者。謂獨頭無明迷理。相應等亦迷事也。」(『述記』第六末・四右。大正43・444b)
(「述して曰く。理事と云うは、謂く、獨頭無明は理に迷い、相応等も亦、事に迷うなり。」)
四諦の理に迷うのは、独頭(ドクズ)の無明(独行無明)のはたらきであり、現象の真実の相に迷うのは、相応無明(共無明)の働きである、と云われています。
貪・瞋・癡等の根本煩悩と相応する無明は、理と事に迷う無明であり、独行無明は根本煩悩とは相応しない無明である。この無明が、主と非主に分けられて説明されます。主独行無明は、ただ理に迷う無明であり、非主独行無明は、理と事に迷う無明であるとされます。
「疏。獨頭無明迷理等者。問前第五云。獨行無明而有兩種。謂主・非主。非主無明通於見修。云何今判唯迷理耶 答且然。瑜伽是主者説。五十八云。又此無明總有二種。一煩惱相纒相應。二獨行。若無貪等諸煩惱纒。但於苦等諸諦境中。不如理作意力故鈍惠士夫諸不如實簡擇。覆障纒裏闇昧等心所性名獨行無明 又非主者。多迷理起。從多分言。由斯疏中不言唯也。」(『演秘』第五本・三十三右。大正43・917b)
(「疏に、獨頭無明迷理等とは、問う、前の第五に云く。獨行の無明に兩種有り、謂く主と非主なりと。非主の無明は見修に通ずと云う。
云何ぞ今判じて唯理に迷うと云うや。
答う、(第一釈)且く然なり、瑜伽は是れ主なる者のみを解く。五十八に云く、又此の無明に総じて二種有り、一には煩悩と相纒相應す、二は独行なり、若し貪等の諸の煩悩の纒無く、但苦等の諸の諦境の中に於て、不如理作意の力の故に、鈍慧の士夫は諸の実の如く簡択(ケンチャク)せず、覆障(フクショウ)し纒裏(テンカ)し闇昧(アンマイ)なる等の心所の性を独行無明と名づくと。
また(第二釈)非主とは多く理に迷って起こすを以て多分に従って言う。斯れに由りて疏の中には唯と言わざるなり。」)
この項について、第二能変 末那識の存在証明の二教六理証において不共無明が論じられています。2012/4・3/の記述より抜粋し記します。
不共無明に総じて二種あることを述べる。
恒行不共無明と独行不共無明について、その相違点を説明されています。
「不共無明に総じて二種有り。一には恒行不共、余の識には無き所なり。二には独行不共、此の識には有るに非ず。」(『論』第五・十一右)
(不共無明に総じて二種類ある。一つには恒行不共無明であり、末那識以外の他の識には存在しないものである。二つには独行不共無明であり、この末那識には存在しないものである。)
無明には大きく、相応無明と不共無明の二つに分けられます。ここで述べられている無明は不共無明で、これが大きく、恒行不共と独行不共に分けられます。そしてここで述べられていますように、恒行不共は第七末那識とのみ相応し、他の識とは相応しないものです。一切の凡夫において無始より以来、恒に働きつづけているところから恒行といわれ、恒行という点から、末那識以外の他の識に相応して働く無明にはないから不共といわれる。もう一つが、独行不共で、これが第六識と相応して働く無明で、末那識には存在しない無明です。貪・瞋等の根本煩悩と相応せず、第六意識と相応して働く無明で、ただ独り働くところから独行不共無明といわれる。『瑜伽論』巻第58(大正30・622a)に詳細が記されています。
「又此無明總有二種。一煩惱相應無明。二獨行無明。非無愚癡而起諸惑。是故貪等餘惑相應所有無明。名煩惱相應無明。若無貪等諸煩惱纒。但於苦等諸諦境中。由不如理作意力故。鈍慧士夫補特伽羅諸不如實簡擇覆障纒裹闇昧等心所性。名獨行無明。」(『瑜伽論』巻第五十八)
また、『瑜伽論』巻第五十八には、この文に先立って、無明について説明があります。「無明とは謂く所知の真実なる覚悟に於て、能く覆い能く障える心所を性と為す。」と。「又此の無明に総じて二種あり、一には煩悩相応無明、二には独行無明なり。愚癡無くして而も諸惑を起すに非ず、是の故に貪等の余惑相応する所有の無明を、煩悩相応無明と名づく。若くは貪等の諸の煩悩の纏(てん)無く、但だ苦等の諸の諦境の中に於て、不如理なる作意の力に由るが故に、鈍慧の士夫補特伽羅の諸の実の如く揀擇(けんちゃく)せず覆障(ふくしょう)し纏裹(てんか)し闇昧(あんまい)なる等の心所の性を独行無明と名づく。
• 纏(てん) - 煩悩の異名。煩悩は心をまとい、おおうから纏という。
• 纏裹(てんか) - まとわりからむこと。如実に簡択しない覆障・纏裹・闇昧等の心所性を独行無明と名く。
「論。不共無明至此識非有 述曰。下顯差別有三。一彰二別明識有・無。二引證。三大小異。此初也。此總凡解。不共無明顯此識者。一恒行不共。此七倶是。今此所諍。餘識無也 其第二獨行不共。則與忿等相應起故名爲獨行。或不與餘倶起無明獨迷諦理。此識非有爲成此後所説無明。」(対象・43・411a)
「述して曰く。下は差別を顕す。一に二が別なることを彰して識にも有無なることを明かす、二には証を引き、三に大・小の異を云う。此れは初なり。此れは総じて凡て不共無明を解して、此の識にも有なることを顕す。一に恒行不共と云うは、此の七と倶なる是れなり。今此に余識には無しと争う所なり。其の二の独行不共の、則ち忿等とのみ相応して起こるが故に、名けて独行と為す。或は余と倶起せず、無明は独り諦理に迷うなり。此の識には有るに非ず。此の後の所説の無明を成ぜぬが為に。」(『述記』第五末・二十三右)
又、『樞要』巻下本・二十五右には
「不共無明有二。一與根本倶恒行一切分。餘識所無名不共。二不與根本倶名不共。然復有二。一與小・中・大隨煩惱倶。不與根本惑倶名不共。二不與小隨惑及根本倶。與中大隨倶名不共。隨其所應後二亦通上界。然與相應多小上下界別 然爲三句。一唯見斷。謂獨行四諦下者。二唯修斷。謂第七識者。三通見修。謂忿等相應。」(大正43・640a)
「不共無明に二有り。一に根本と倶に恒に一切分に行ずる、余識に無き所を以て不共と名く。二には根本と倶ならざるを以て不共と名く。然して復二有り。一には小・中・大の随煩悩と倶にして、根本の惑と倶ならざるを以て不共と名く。二には小随惑と及び根本と倶ならずして、中・大の随と倶なるを以て不共と名く。其の所応に随って後の二も亦上界にも通ず。然るに相応する多少は上下界と別なり。然るに三句を為る。一には唯だ見断と云わば、謂ゆる独行の四諦の下の者。二には唯だ修断と云わば、謂ゆる第七識の者。三に見・修に通ずるは、謂ゆる忿等と相応するなり。」 と。
『述記』・『樞要』の記述は『論』の補足説明になりますが、再度まとめてみますと、不共無明に二つ有り、(與根本倶恒行一切分の)恒行不共無明と、(不與根本倶名不共の)独行不共無明である。独行不共無明がまた二つに分けられ、一つは根本煩悩と相応せず、小・中・大の随煩悩と相応する非主独行不共無明と、忿等の十種と根本煩悩と相応せず、中・大の随煩悩と相応する主独行不共無明とに分けられる。主独行不共無明は見道所断であり、非主独行不共無明は修道所断である。小随煩悩の忿等は見断にも通ずると説明がなされています。」
この所論をうけて、本科段を読み解きたいと思います。
「相応の無智は九と与(トモ)(或は、與)に同じく迷う。不共の無明は親しく苦の理に迷う。」(『論』第六・二十二右)
相応の無智は、九の煩悩とともに同じく迷うのである。不共の無明は、親しく苦諦の理に迷うのでる。
相応の無智=相応無明 ― 貪等の九の煩悩と相応する無明である。
無明(癡){
不共の無明=不共無明 独行不共無明 ― 煩悩と相応しない。
{
恒行不共無明 ― 第七末那識相応の煩悩と相応する。(第六意識相応の煩悩とは相応しない。)
本科段で問題にしているのは、一つは、相応無明です。相応無明はすべての煩悩と相応しますから、他の九の煩悩が苦諦の理に迷うというのであれば、相応無明も苦諦の理に迷うわけです。その中で、薩迦耶見・辺執見・邪見と相応する場合は、所謂、親迷になります。また、その他の煩悩と相応汚する場合は、所謂、疎迷ということになります。
もう一つの問題は、不共無明ですが、この無明は単独で生起する無明ですから、直接的に苦諦の理に迷うということになりますから、親迷です。 また明日にします。
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