唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能返 受倶門  別徴結文 ・ 釈尊伝(60)

2010-07-14 23:30:38 | 受倶門

 釈尊伝 (60) 第二篇 釈尊伝序説

 近代の立場    - 研究の対象 -

 「釈尊伝というテーマで話を申し上げて、そこから我々の人生と仏教との関係をつかんでゆきたいという意味で、このテーマをもって、ここ一両年こうした会を続けているわけであります。

 釈尊は、いうまでもなく歴史上の人物として考えられているのが今日の一般的立場であります。したがって、そういう意味の釈尊の教えというものは、思想あるいは哲学として考えられ、それから、着眼点をかえれば文学的対象、または芸術の面から、つまり釈尊から発生した一般の歴史上に生まれてきた芸術作品というものが対象となって研究されております。それが今日における大体の釈尊観であります。そういう意味で、仏教というものは一つの宗教、ある種の哲学、また一種の思想という意味で考えられてきますので、それが、われわれが今日まで養われてきた仏教に対する観念といってよいのでありましょう。

 そこに共通していえて一番大切なことは、いづれも対照的に眺められ研究されるので、主体的な立場からはみられないということであります。その主体的な立場という言葉すら、私の経験からすると、それは第二次大戦後にこういう言葉にふれたので、われわれはそれをそういう意味から考えて、はじめは理知的な意味でしか考えられなかったしまつです。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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 第三能変 受倶門 別徴 結び

 (雑感) 受倶門で上来教えを頂いているわけですが、何が私に伝えているのであろうか、ということなのです。一言で「人間回復のメッセージ」といいましたが、教えに触れたときに、初めて人間あるいは自己が問題になるわけです。普通は人間であることに何の疑問も持たないのですから「人間回復」といってもナンセンスな問いかけになってしまうのです。仏教はこの人間に「六趣」の一つのあり方という捉え方をしています。人間として生をうけたとしても、その在り方が、地獄・餓鬼・畜生という三悪趣という人間性を失ってしまった在り方があるということを教えているのです。そして人間性を失っているのは何に依るのか、ということが端的に自己への執着であるといわれています。徹底的な執着です。寝ているときも起きているときも、命と共に命をも執着しながら生きているわけです。それに全く気づくことなく生きているのが私の姿なのです。そしたら気づいたらどうなのか、といいますと、それもまた執着だと教えられます。この執着が苦をもたらすのですね。一切皆苦と教えられます。これは人間性を失った地獄の在り方なのです。地獄は苦のみの世界であるといわれます。苦のみの世界を欲界というのでしょう。仏教の世界観に三界という教えがありますが、欲界は欲望によって成り立っている世界です。自己の欲望ですね。その欲望が苦を生み出す因なのですね。では何故、欲望が苦を生み出すのでしょうか。考えて見たいと思います。(明日につづく) 


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