唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 別徴 結文 ・ 釈尊伝(61)

2010-07-15 23:41:22 | 受倶門

 釈尊伝 (61)     - 近代の立場 -

 ただ、そういう言葉の問題は別としても、仏教がたまたま近代日本という立場から主体的にみられる糸口となったということがあります。それ以前には主体的という言葉もなかったし、そういうべき意味もありませんでした。自分というものが、特別に自意識ということすらもちえなかったということがあったからです。仏教というものもそういう意味では、近代以前において自意識というものをもてない状態であった。仏教のみならず社会自体、そういうことが考えられなかったわけでしょう。

 明治にはいってから、西洋から異質な文化が入るにつれて、日本人もそれにうごかされてきます。それをあくまでも排撃してゆくことは不可能とわかって、それを進んでとり入れる。「進取」、進んで外国の文物をとり入れることになります。そういうことになって明治の時代が開けるのですから、そういう時代になって自意識ということがすこしずつ問題になってきます。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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 第三能変 受倶門 別徴 結文 雑感その2

 初期の経典では執着は渇愛により起こるといわれていますが、自己に執着するのは、限りなく自己を愛し続ける自分が存在するからなのでしょう。何故自己を限りなく愛し続けるのかと言いますと、自己が失われる恐怖心からだとおもいます。自分が亡くなってしまう恐怖から自分に執着し続けるのでしょう。「恒審思量」といわれ、悶絶している時でさえ自己を思い続けるのです。おもいつづけるというより、思い続けざるをえないのでしょう。そのことが苦を招いてくるというのです。本来人間は関係性を共有する朋がらですが、その共有性を自己の限りない愛着から関係性を断ち切ってしまうのです。それが地獄と表現されているのではないかと思います。地獄はイメージ的には暗黒の闇、そして恐怖のどん底という感がありますが、決してそのようなことではなく、パラダイス的な闇も存在するのですね。そこに闇の本質というのか、地獄にあって、地獄に在る自覚が無いという、人間存在の喪失という問題を孕んでいると思います。 (続く)

 


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