ある人曰く 「念仏すれば地獄に堕ちるぞ」、
親鸞聖人答えて曰く 「いずれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし」
釈尊伝(67) ー 着眼点 ー
釈尊の成道から、どこに向いて話がはこぶかわかりません。とにかく歴史上の人物を一つのプロフィールとして、従来、仏陀の意味をみてきましたが、今一つわれわれの着眼点をどこにおくか。その置き場所によって、歴史的人物になったり、仏陀になったりする。仏陀という意味になれば人物は問題ではない。どれだけの身の大きさ、どこの人、どれだけ弟子があったか問題ではない。一つだけ仏陀の意味があたえられれば、十分に釈尊の意味がなりたつのではないか。それがないとインド、中国、日本とたくさんの人を潤してきた意味がないわけであります。釈尊という人の伝記が人を救ったのではない。仏陀という意味がたくさんの人を救ったのです。
― 自ら生きる ー
一体、仏、救いとはなにか。われわれはいつも客体的にしかちりようがない。決められたとおりにしか生きようがない。それが、自ら生きるという、自ら生きるというだけでなく、自らなしうる。自ら造り、自ら生きるなら、自ら死ねるという - といって自殺するのではない - そういう意義をあたえるのが、仏陀という意味ではなかったのか。
そうでないと、歎異抄が人々に、なにかエネルギーというよりも、なにか不思議な感動をあたえたということの説明がつかないわけでございます。 (つづくー次回からは第二章・解脱の道を連載します) 『釈尊伝』蓬茨祖運述より
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第三能変 受倶門 例挙 ・ 未至定には、楽受がないことを説明する。
「然も未至地には定んで楽根無し、彼には唯十一の根のみ有りと説けるが故に」(『論』)
十一根 = 信・勤・念・定・慧・無貪・無瞋・無癡・意・喜・捨を指す。
未至地 = 未至定のことで、色界初禅の近分定のこと。
(意訳) しかも、未至定には楽根(楽受)がない。未至定にはただ十一の根のみがあると説かれているからである。
典拠は『瑜伽論』巻第五十七(大正30・615a)で証明されている。そこには楽根(楽受)は入っていないことがわかり、喜受があることがわかる。よって、仮に喜受を楽受と名づけているにすぎないというわけです。
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