唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 別徴その2 ・ 釈尊伝 (59)

2010-07-13 21:14:06 | 受倶門
 釈尊伝 (59)    ー 無明を晴らす ー
 
 仏陀のさとりをひらかれたという意味は、われわれが今日もっていますところの、生存しているというものを土台として、そこに一つの大きな、われわれの無明のくらさを晴らすところの灯明をともしてくださるという意味であります。そしてその灯明をもちながら常に大地を歩んでたえずわれわれに光をめぐむ、光は智慧であり、また同時にそれは仏陀のわれわれに対する思いやりであります。そういう意味の働きがわれわれ一人ひとりにあるわけであり、われわれ一人ひとりがそういう意味のあることを知ったときには、私たちは人生というものに、また単純に生きて行くという以上の大きな意義を感得することができます。こういうことが一応結論になるわけであります。
            
             ー 生活の教え ー
 そういうわけで一人ひとりが自ら一個人であるにすぎないという一面をもちつつも、同時に大地であると、一切の人びとが苦しみあがいているところの大地でもあると、こういう意味を生むことができることを仏の教えというわけであります。平生のわれわれの生活、それは欲望の家の生活です。その家の生活の中に仏陀の教えをしばし念ずるということが、すなわち出家であるということです。しばしの間でも仏陀の名を念ずるというだけでも、それが仏陀とひとしい出家という意味をもつのです。それは家を捨てずして出家であるから、そのまま家を利する。この世を本当に利益する。自分の生きていることが自分ではかった以上に、この世の利益となっているのだということをいつも思うことができることが、仏教の意味でもあるし、また出家の意味でもあります。そういう点を一つこれから考えていただきたいのであります。
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 第三能変 受倶門 別徴(苦根を第八番目とする安慧の釈明を論破する)
 「苦根を執じて第八と為ること有らば、亦此れに同じく破せよ」(『論』)
 (意訳) また安慧が苦根(身心が相続し、身識と相応する)を第八番目の根とすると釈明をしたとしても、やはり前と同じように論破されるべきである。
 「汝設ひ若し身識は定んで相続するを以って、(五識の)苦根を以って第八とすといはば、(第六の)憂の如く間断す何處にか定んで成ぜむ。又若し爾らば彼處に憂根何ぞ間断すべきや。更に別義として意識は間断す。五識は相続すること無きが故に。又意には捨受無し、易って(かえって)起こる受には非ざるが故に。今解す、此れが中に苦有りという師の意は、必定して憂無し、苦を以っては不定と為す。意の中の苦受は即ち客受に約していう。亦間断すと許す」(『述記』)
     - 一形を第八番目とする釈明を論破す -
 「設い一形を執じて第八と為すといはば、理いい亦然らず、形不定なるが故に、彼には悪業に招かるるをもって、形無きもある容きが故に」(『論』)
 (意訳) ここも安慧の釈明を論破します。たとえ、一形(男女根)をもって第八番目の根とするといっても、道理は通らない。なぜなら、一形の形は不定であって定まっていないからである。地獄・餓鬼・畜生界には悪業をもって、悪業の報いとしての結果であるために、根の形さえ無いからであり、それがどうして第八番目の根と為り得ようか。
 (一形第八の論破) 「なにに随って男・女をば以って第八と為し、故に定んで成ずといはば、理いい亦然らず。形は不定なるが故に。今は彼(地獄)しこに生じて定んで成就せるを言う。且く男根の如きは彼しこに生じ已って定んで皆成就するものには非ず。其の鬼・畜の等は又悪業に招かれたるをもって形無きもある容きが故に、文として遮せること無きが故に」(『述記』)
 「問う。化生において『瑜伽論』第二の如く、或いは諸根を具せり、或いは復具せずと説けり。何が故か地獄に定んあで五根有る物を、男・女の随一定んで有りということを許さざる、・・・」(『述記』) ー 地獄は悪業の報いにより、無間地獄は苦を受ける事、間断がない。 化生というは、「諸々の有情、業増上の故に、六處(六根)を具足して生じ、あるいは復具せざるあり。彼復云何ん。天と那落迦との全分と及び人と餓鬼と旁生(畜生)との一分の如し」(『瑜伽論』第二)
 地獄に於いては男女根の存在は無意義であることから破する。 その(1)論破
 「彼は悪業に由って五根門に恒に苦を受け令むるが故に、定んで眼等を成ぜり。必ず一形有らしめて彼に於いて何の用(ゆう)かあらん」(『論』)
 (意訳) 地獄では悪業に由って(報いとして)、地獄にいる有情の五根門(眼・耳・鼻・舌・身の根)に、つねに苦を受けさせるために、必ず眼等の根を形成しているのである。しかし、一形があったとしても、地獄に於いては何の作用があるというのか。「男・女根處は能く苦を受くということは非ざるが故に」(『述記』)といわれますように、男女の根処は、苦を受けるためのものではないので、地獄には不必要なものであり、故に第八番目の根とは成り得ないのである。
 
 その(2) 理由(所以)
 「無間大地獄の中では、淫欲の事を希求(けぐ)すること有る可き者に非ざるが故に」(『論』)
 「彼の中に於いて淫事有る可きもの非ざるが故に、或いは男女根無きが故に、小地獄の中に此の貪有る可きが故に、又若し以って縁と為るが故に其れをして苦を受けしむとして一形を須といはば、即ち応に一切に定んで二形を成ぜしむべし。或いは復彼の一有情の身の罪極めて重き者には、百千の形有って多からしめ彼が苦を受くる縁と為すべきが故に」(『述記』)
 (意訳) 無間大地獄の中は苦が間断することなく逼迫してくるので、淫事を求める者などいない、というより、その暇がないのである。従って地獄の住人には淫欲に用いる男女根は具えない。このことからしてもわかるように、安慧が主張する第八番目の根としての一形とする解釈は成立しないのである。
 後半は結文になりますが、以上述べられてあることは、何を意味するのでしょうか。私は「人間回復のメッセージ」として了解させていただいていますが、明日は結文に先だって私見を述べさせていただきたいと思います。

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