唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 三受と三性の関係・総結 ・ 釈尊伝(45) 

2010-06-26 18:44:16 | 受倶門

 釈尊伝 (45)     - 苦行 -

 苦行は伝記によりますと六年つづけられたといわれています。はたして六年つづけられたのかどうかわかりませんが、あらゆる苦行を限度まで実行されたのであります。普通の人間の限度までやられ、さらにその限度をこえて、だれもできないという苦行までやられたのです。しかしその苦行の結果、得られたものはなんであったかともうしますと、なにもなかったということです。からだが衰えて、精神がぼんやりとしてきたというより他になかった。ただ依然として欲界より他なかったということです。つまり一種の満足はあるのです。やりとげたという満足です。普通の人がなかなkできないところの苦行、つまり断食など、普通ならばなかなかできないこともやりとげた。それから日の照らす三十九度、四十度という炎天にからだをさらして、普通なら日射病で倒れて死んでしまうところを耐えぬえいて、そうして苦行をつづけられた。けれどもないも得たものはなかった。ただやりとげたという、それだけの満足しかなかったということです。その苦行の無効であることをしって、尼連禅河で身を洗って、それから村娘の供養する乳粥を食べて、そして体力を回復したというところが釈尊のつまり出家というものの一つの結果であります。

        - 真の出家 -

 で、こういう物語、仮に物語といわれなければなりませんが、この物語はひとくちでいいますと、釈尊は出家をせられた。そうして精神的にも家を出ようとなさった。からだの方では一応、家をでまして、精神的に出家をしようと、禅定の境地をもとめた。しかし精神的に完全に出家ということはできなかった。それから苦行によって、こんどは出家ということをなしとげようとした。しかし苦行によっても、とうとうできなかった。それから村娘の乳粥の供養をうけて、体力を回復したといいますのは、これは普通の世間にもどられたといってよろしいのでよう。出家をしましたけれども、出家というのは、ほんとうに出家すべきところは別なところにあったのではなくして、われわれが平生この欲望で生きているという場所において出家すべきであると、こういう意味が語られているといってよかろうかと思います。禅定、苦行という意味は、それをやったということではなくして、そこに人々は出家という意義を認める。なぜならやられたという満足はあるし、人々からみたら人のできないことをやっているという意味で称賛があります。しかし釈尊はそれをあきらかに出家ではないとさとられて、そうしてほんとうに出家すべき場所は、やはりこの欲望の場において、その場を離れずに出家をするということでなければ真実の出家でないと。こういう意味を伝記にあらわされているとみられるのであります。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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 引証 - 『瑜伽論』 原文 

 「問是諸煩惱幾與樂根相應。乃至幾與捨根相應。答若任運生一切煩惱。皆於三受現行可得。是故通一切識身者。與一切根相應。不通一切識身者。與意地一切根相應。」(『瑜伽論』巻第五十九・大正30・627・C-17)

  •  問う、是の諸々の煩悩は幾ばくか楽根と相応し、乃至幾ばくか捨根と相応するや。
  •  答う、若しくは任運に生ずる一切の煩悩は、皆な三受(憂・喜・捨の三受根)において現行することを得べし。是の故に一切の識身に通ずる者は(貪・瞋・癡の根本煩悩)一切の受根と相応し、一切の識身に通ぜざる者は意地の一切根と相応す。任運に生ぜざる一切の煩悩は、其の所応に随って諸根と相応す」

 次に『雑集論』を引く

 「雑集論に説かく、若し欲界繋の任運の煩悩の悪行を発すは、亦是れ不善なり、所余は皆是れ有覆無記なりという」(『論』)

 『雑集論』には「欲界繋の任運の煩悩が悪行を起すのは不善であるといい、しかし、その他はすべて有覆無記である」という。

 「述して曰く、『雑集』の第四巻の初なり。此れは『集論』には非ず。是れ『雑集』の文なり。欲界の煩悩の任運に起こるは、能く悪行を発するは是れ不善なり。所余の悪行を発さざるは是れ無記(有覆無記)なり。身・辺ニ見と及び此れと相応する即ち修道の悪行を発さざるの惑となり。」(『述記』)

 『述記』に「五十八に倶生の薩迦耶見は唯(有覆)無記なり等と云えり。身・辺二見の唯業を発さざるは」、数々現行するが故に、極めて自他を損悩する処に非ざるが故にと。『雑集論』巻四に云う、余は無記とは是れ発業の余なり。倶生の身見は既に無記性なり。余の中に摂む、業を発すこと能わざるをもってなり。辺見も亦しかなり。(『演秘』)

 『瑜伽論』第五十八に「倶生の薩迦耶見は、唯だ無記性なり、数々現行するが故に、極めて自他を損悩する処に非ざるが故なり。」と説かれています。

 三界の中の欲界は欲望渦巻く世界ということなのですが、この欲望渦巻く煩悩が「諸々の悪行の安足する処」なのです。ですから欲界とは悪行が安息する場所ということになります。欲望渦巻くという事は不善ですから、悪趣に往くのです。この煩悩をもって依り処とするということは、身・語・意の三業は当然緒の悪行を作ることになり、増長していくことになるのです。またこの煩悩がある限り善性を覆い隠して不善性をもたらすといわれています。『観無量寿経』の「厭苦縁」から「欣浄縁」に説かれる一節ですね。「世尊、我宿何の罪ありてかこの悪子を生める。世尊、復何等の因縁有りてか提婆達多と共に眷属為る・・・」と自らを善としての悲痛ですが、善導は「夫人既に自ら障り深くして宿因を識らず、今児の害を被むる。是れ横に来たれりと謂うて、願わくは仏の慈悲我に径路を示したまえと言うことを明かす」といっています。「自ら障り深くして宿因を識らず」と貪・瞋・癡の煩悩の障りが深いことを韋提希夫人は知らないという事です。このことは何も韋提希夫人一人の問題ではなく、一切衆生の問題を韋提希夫人に託して語られているものでしょう。「欲界の煩悩は諸悪の安足する処」なのです。むしろこの発言は人間として当然の結果なのでしょう。では何故このことが苦を厭うことになるのか、ということですが、ここに仏陀の存在がありますね。仏に遇うているということが苦を厭い、浄を欣う縁になるのですね。仏陀を前にして仏に恨み節を露呈するのです。仏をも恨まずにおれないという苦悩です。これが縁になり、「唯、願わくば世尊、我が為に広く憂悩なき処を説きたまえ。我当に往生すべし。」苦の内容は憂いなのですね。憂い無き処を願うわけです。そしてこの世のことを「閻浮提・濁悪世」といっています。この処を楽わず。何故かというと「この濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盁満して、不善の聚多し。」といわしめています。仏陀を前にしてという所が大切なことになりますね。仏陀を介在しなければ、ただの愚痴です。そのことから浄を願うという事は起こり得ません。厭苦から欣浄へという転換のところに仏陀の大悲心が働いているのですね。そして仏陀の大悲心に触れた時に「願わくば我未来に悪声を聞かず、悪人を見ざらん」という願になるのです。唯識で今、くどくどといっていることは、正にこのことを明らかにしたいということに他ならないと思います。薩迦耶見(身見)は有覆無記であるということが明らかにされているという事は、善でもなく不善でもなく煩悩に覆われているけれども無記性であるということが大事なところだろうと思います。

 「故に知んぬ、三の受に各々四有る容し」(『論』)

 以上によって、三の受に各々四性があることがわかるのである。(総結の文によって結ばれています。)


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