唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 未至定の根拠

2010-07-23 23:49:12 | 受倶門

 「彼には唯十一の根のみ有りと説けるが故に」という根拠が示されています。この文言は『瑜伽論』五十七に由るわけです。そこには

 「問う、未至地に幾ばくか得可きや。 答う、十一なり。

 問う、若し未至地に喜根ありといはば何が故に初静慮地の如く喜を建立せざるや。 答う、彼の地に於いては喜動すべきに由るが故なり。

 問う、喜彼に於けるは何の教ありて証と為すや。 答う、世尊の言うが如し、「是の如く苾蒭(ひつしゅ)よ、離生喜楽は其の身を滋潤(じにん)し、周遍(しゅうへん)して滋潤し、遍流(へんる)し遍悦(へんえつ)し、少分として充たず満たざるとあること無し、是の如きを名づけて離生喜楽と為す」と。」述べられています。概略しますと、欲望みなぎる世界を離れて、その上界である色界・無色界に生まれる時、その上界の定に身は潤わされ、心は悦び益される、その有様はわずかとして充填されず、満足されないことはないのである。そして、その感受は喜受となるのですが、身を滋潤し、といわれますように、その身ににも利益が及ぶことに成り、仮に楽の名を立てるというのです。色界初禅と第二禅の近分定に起こる感受は、身と心を潤すことから、これは喜受ではあるが、また楽受ともいう、といわれています。

 「此れに由って応に知るべし、意地の慼受(しゃくじゅ)の純受苦処にあるをば、亦苦根のみに摂めらる」(『論』)

 (意訳)以上によって知るべきである。第六意識の慼(うれい)受の純受苦処(地獄)にあるものは、苦根のみであるという。これによって護法正義の論拠が示されています。


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