唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (103) 三断分別門 (17)

2015-05-13 20:55:34 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
    十煩悩の自類相応の図式 

         五逆罪(害父・害母・害阿羅漢・破和合僧・出仏身血)    事      
      ―――――――――――――――――――――――――――――
            謗法(五逆罪の背景・誹謗正法)            
               
     
             迷事の惑(罪福信)  貪・瞋・慢
      ―――――――――――――――――――――――――――――
            迷理の惑(仏智疑惑) 五見と疑


  倶生起の迷事の惑の断について
 「瞋と余の愛等とは、別と事とに迷うて生じ、諦観に違せず、故に修所断なり。」(『論』第六・二十二左)
 本科段の「瞋と余の愛等とは」は何を指しているのかが問題になりますが、『述記』には「瞋及び前の二の見(薩迦耶見と辺執見)と相応するを除いての外の、余の独行の愛と慢と及び此れと相応する無明とは、別の有情或は境の事に迷って生じて、理に迷わず。四諦観に違せざるが故に修所断なり。」と説明されています。
 瞋及び、倶生起の薩迦耶見と辺執見と相応する貪・慢・無明を除いての「他の」倶生起の愛・慢・無明を指す。これは、独行の愛と慢と、独行の愛と慢と相応する無明は、別の有情や認識対象という事に対して迷う迷事の惑であり、理に対して迷う迷理の惑ではない。しかし、四諦観に違背するものではなく、これらの迷事の惑も亦修所断であると説かれています。
 さらに『述記』はつづけて「見道の独行の貪等は、事に迷うことありと雖も、然も諦観に違せるが故に、見所断なるを簡ぶ。」

           分別起の煩悩の断は  ―  見所断
           倶生起の煩悩の断は  ―  修所断  

 次科段は、縁有事無事門になります。
 

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