上来、種子の六義をみてきましたが、まとめてみますと、一から三は、種子の義を述べてそれに違するものを遮し、以下四から六は余部の義の執を簡んで説かれています。そしてこの六つの条件を満たすものが種子であることを説いているのです。
- (1) 刹那滅 - 常法を遮す。
- (2) 果倶有 - 前後と定離とを遮す。
- (3) 恒随転 - 転識を遮す。
- (4) 性決定 - 余部の異性の因が異性の果を生ずるのを遮す。
- (5) 待衆縁 - 余部の(a)自然因と(b)三世実有論を遮す。
- (6) 引自果 - 余部の(a)一因説と(b)色心等も互いに縁と為る主張を遮す。
結論が『論』には「唯本識の中の功能差別のみ、斯の六の義を具するを以て種と成る。余には非ず。」と説いています。
阿頼耶識の中の功能差別のみがこの六の義を備えている。これが種子であるということになります。ここは、阿頼耶識があって、阿頼耶識の中に種子が詰まっているということではなく、功能(能力)差別(さまざまな種子の区別)が阿頼耶識を形成していることになろうかと思います。
「上の転識等は種と名づくる義に非ざることを簡ぶ。此の中に別に上の六義を解するに、中には唯内種のみ具に六義有りと言う。」(『述記』)
ここにまた一つ問いが出されています。内種と外種の問題です。『摂大乗論』には外種にも六義が見出されると説かれているが、外の穀麥種(コクミャクシュウ)を種子と名けるのか、名けないのかというものですが、これらの外種は識所変(第八識が変現したもの)であり、現行の法、果である。仮に種子と名けることがあっても、実の種子ではない、ということになります。
『論』には、内種と外種について説かれていますが、内種は因縁性であり、外種は増上縁である。因縁性は能生の果であるが、増上縁は所生の果であると説き明かしています。
次に熏習について説かれます。所熏と能熏の四義を具して種をして生長することが熏習であると云われます。一切の経験が阿頼耶識の中に熏習されるといいますが、経験の蓄積の構造を熏習は明らかにしているのですね。経験を積み重ねることに於いて身心共に深まっていくと云うこともありましょうし、また逆にですね、悪を重ねることに於て粗暴というか凶悪になっていくということもありましょう。どちらも自分が養われていくことになりますね、この構造を熏習は教えてくれます。ややこしい所ですが、ゆっくり読んでいきます。 (つづく)
昨日引用しました帖外和讃九首を掲載しておきます。
帖外和讃 この九首和讃は京都常楽台の宝庫より発見され、古来、親鸞聖人の真作であろうといわれている。
- 四十八願成就して 正覚の弥陀となりたまふ たのみをかけしひとはみな 往生かならずさだまりぬ。
- 極楽無為の報土には 雑行むまるゝことかたし 如来要法をえらんでは 専修の行ををしへしむ。
- 兆載永劫の修行は 阿弥陀の三字にをさまれり 五劫思惟の名号は 五濁のわれらに付属せり。
- 阿弥陀如来の三業は 念仏行者の三業と 彼此金剛の心なれば 定聚のくらゐにさだまりぬ。
- 多聞浄戒えらばれず 破戒罪業きらはれず たゞよく念ずるひとのみぞ 瓦礫も金と変じける。
- 金剛堅固の信心は 仏の相続よりおこる 他力の方便なくしては いかでか決定心をえん。
- 大願海のうちには 煩悩のなみこそなかりけれ 弘誓のふねにのりぬれば 大悲の風にまかせたり。
- 超世の悲願きゝしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こゝろは浄土にあそぶなり。
- 六八の弘誓のそのなかに 第三十五の願に 弥陀はことに女人を 引接せんとちかひしか。
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