唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (72) 第七、三界分別門 (9)

2015-03-26 20:24:04 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門
 大阪管区気象台は26日、大阪市で桜(ソメイヨシノ)の開花を観測したと発表した。職員が大阪城公園西の丸庭園(同市中央区)の標本木で5輪以上の開花を確認した。平年より2日、昨年より1日早い。(朝日デジタル)
 
 後半の部分です。
 上地に在る者が、下地の倶生起の煩悩を起こす場合について述べられます。
  「身は上地に在って、将に下に生ぜむとする時には、下の潤生倶生の愛を起こすが故に。」(身は上地に在りながら、まさに下地に生れる時には、下地の潤生の倶生起の愛(貪)を起すからである。)
 倶生起の煩悩は、輪廻する時に正潤生(主)となって生を潤(潤生)し、分別起の煩悩は助潤生となる。十二支縁起で云えば、老死・生・有・取・渇愛・受・触・六処・名色・識・行・無明(『大乗の仏道』東本願寺刊、より) 潤生の時に、上地に在りながら、下地の煩悩を起こす時であると説かれています。
 「潤生の愛を起こして下に生ずることも亦是れなり。即ち是れ倶生の無記の煩悩なり。この中に言うべし。我見・我愛、及び慢、無明なり。無明、愛は定有なり。我見、慢は不定なり。未だ必ずしも倶ならざる故に、所以に説かず。」(『述記』)唯識は、中有において生を転ずることがあるという立場になります。中有が有るとか無いという問題ではなく、中有があって初めて生有という、生まれることが起って来たんだと云う自覚でしょう。迷いと倶に生れて来たということでしょうね。それと、阿頼耶識には煩悩は存在しない、純粋無垢である、そこに救済の糸口があるのではないでしょうかね。煩悩と共に生まれてきたけれども、本識には煩悩は無いということなんですね。
 「有」と云われる、この場合はビハーバ(bhava)という生命的存在を指しています。私たちには分かりませんが、分別起の邪見を起したのか、或は倶生起の愛を起こしたのかに由って、人間界に生れてきたのでしょうね。一言でいえば、迷よった、ということでしょう。
 五悪趣という輪廻の主体なんですが、人間界はその中でも善趣といわれています。何故なのでしょう。三悪趣から転生したのかもしれません。また上地から転生したのかもしれませんが、いずれにせよ、ラストチャンスを与えられたことだと思いますね。人が人として生きるのは、菩提心をもって生きることであり、浄土を帰依処として現世に落在することでなければならんと思いますね。そのようなチャンスを与えられていることに頭が下がっていくのではないでしょうか。
 横川法語(源信僧都)
 「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。功徳莫大なり。此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿