春風に乗って、桜一気に開花しましたね。春爛漫です。もうすぐ学校の校庭も満開になりますね。(昨年の横堤小校門の桜です)。
後半は、『瑜伽論』巻第五十八等を会通する。
『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623b)等には、上地にいる者は下地の煩悩を生起させることはない、と説かれている。また巻第六十二(大正30・645c)には、下地の諸法は上地に生れるときには現前しないと、説かれている。これ等の所論と、『論』の所論とは矛盾することになり、本科段において会通するのである。
『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623b)の所論は
「諸の煩悩の纏にして未だ自地の煩悩の欲を離れざる者は自地に現起し、已に欲を離れたる者は即ち現起せず、若し下地に在りては上地の諸纏をば亦た成就することを得、上地に在りては下地の諸纏を成就すと説くことを得るに非ず。・・・」
巻第六十二(大正30・645c)の所論は、
「下地の諸法は若し上地に生ずれば現在前せず、上地の諸法は若し下地に生ずれば其の離欲の者は或は現在前す。若し下地に生じ上地に於いて愛を起こし、未だ離欲を依ず、定心ならざればまさに此の愛は是れ欲界繋なりと言うべく、まさに知るべし、此の愛は是れ染汚、或は不染汚なりと。・・・」
「而も上に生れて下のを起さずと言えるのは、多分に依って説けり、或は随転門なり。」(『論』第六・二十左)
しかし、上地に生れて下地の煩悩を起こさないと(『瑜伽論』)に説かれているのは、多分(大体・おおまかに)に依って説かれたものである。或は随転理門によって説かれたのである。
① - 多分に依って説かれたもの。
② - 随転理門に依って説かれたもの。
①については、『述記』には、惑数に約すのと、起こる時に約すという二点が説明されています。惑数に約すというのは、「余の三見(辺見・見取見・戒禁取見)と疑等とは下のを起さざる故に、」、起こる時に約すというのは、「ただこの二時に此れ等を起こすが故に。」と釈されていますが、惑は煩悩の異名ですから、煩悩の数の多少の視点から、起こる数と、起こらない数によって、起こらない煩悩を多分として説かれているのであると会通してきます。つまり、上地にいる者は下地の邪見・瞋・痴・愛・慢・我見は起こすが、その余の三見と疑は下地のものをを起こすことはない、これを多分として『瑜伽論』には説かれているのですね。
もう一つは、起こる時に約すという、時の視点からですね多分を説いてきます。謗滅時(分別起)と潤生時(倶生起)の二つの時を指しています。この二つの時は、上地にいる者は下地の煩悩を起こすわけですが、この時以外の多くの時には下地の煩悩は起こさないので、『瑜伽論』は多分に依って説かれたものである、と会通しているのです。
②についてですが、随転理門はよく出てきます。他の学説に随って記述するという方法です。ここでは有部の教説に順じて説かれたのであると会通しています。
後半は、『瑜伽論』巻第五十八等を会通する。
『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623b)等には、上地にいる者は下地の煩悩を生起させることはない、と説かれている。また巻第六十二(大正30・645c)には、下地の諸法は上地に生れるときには現前しないと、説かれている。これ等の所論と、『論』の所論とは矛盾することになり、本科段において会通するのである。
『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623b)の所論は
「諸の煩悩の纏にして未だ自地の煩悩の欲を離れざる者は自地に現起し、已に欲を離れたる者は即ち現起せず、若し下地に在りては上地の諸纏をば亦た成就することを得、上地に在りては下地の諸纏を成就すと説くことを得るに非ず。・・・」
巻第六十二(大正30・645c)の所論は、
「下地の諸法は若し上地に生ずれば現在前せず、上地の諸法は若し下地に生ずれば其の離欲の者は或は現在前す。若し下地に生じ上地に於いて愛を起こし、未だ離欲を依ず、定心ならざればまさに此の愛は是れ欲界繋なりと言うべく、まさに知るべし、此の愛は是れ染汚、或は不染汚なりと。・・・」
「而も上に生れて下のを起さずと言えるのは、多分に依って説けり、或は随転門なり。」(『論』第六・二十左)
しかし、上地に生れて下地の煩悩を起こさないと(『瑜伽論』)に説かれているのは、多分(大体・おおまかに)に依って説かれたものである。或は随転理門によって説かれたのである。
① - 多分に依って説かれたもの。
② - 随転理門に依って説かれたもの。
①については、『述記』には、惑数に約すのと、起こる時に約すという二点が説明されています。惑数に約すというのは、「余の三見(辺見・見取見・戒禁取見)と疑等とは下のを起さざる故に、」、起こる時に約すというのは、「ただこの二時に此れ等を起こすが故に。」と釈されていますが、惑は煩悩の異名ですから、煩悩の数の多少の視点から、起こる数と、起こらない数によって、起こらない煩悩を多分として説かれているのであると会通してきます。つまり、上地にいる者は下地の邪見・瞋・痴・愛・慢・我見は起こすが、その余の三見と疑は下地のものをを起こすことはない、これを多分として『瑜伽論』には説かれているのですね。
もう一つは、起こる時に約すという、時の視点からですね多分を説いてきます。謗滅時(分別起)と潤生時(倶生起)の二つの時を指しています。この二つの時は、上地にいる者は下地の煩悩を起こすわけですが、この時以外の多くの時には下地の煩悩は起こさないので、『瑜伽論』は多分に依って説かれたものである、と会通しているのです。
②についてですが、随転理門はよく出てきます。他の学説に随って記述するという方法です。ここでは有部の教説に順じて説かれたのであると会通しています。
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