上二界に在っては、倶生起・分別起を問わず、定んで無記であることを顕す。
「上二界のをば唯無記のみに摂む、定に伏せられたるが故に。」(『論』第六・十九左)
「余の九は二に通ず」をうけて、先ず、上二界ではどうかという問いに答えています。上二界に存在するものは、唯無記(有覆無記)のものである。それは、定に伏されているからである。
上二界という禅定の世界では、煩悩はあるけれども、禅定に伏せられて無記になる。煩悩は悪(不善)であるけれども、禅定によって、不善は覆われ無記性として現前してくるわけですね。
この科段においてもですね、「不断煩悩得涅槃」の持つ意味が窺えますね。聞法は欲界の出来事ではなく、禅定の世界なんですね。倶生・分別を問わず無記であると云っています。
欲界の中に在って、欲界を超えて禅定の世界に身を置くと、煩悩はそのままに、煩悩は禅定に覆われて無記となる。無記は平等性をあらわしますから、自他不二ですね。僕はね、これがお蔭さまの世界ではないかと思うんです。煩悩は悪なんだけれど、煩悩が聞法に覆われて「ありがとう」といえる世界が共有される。お蔭様、仏仏想念の世界の現行です。
覆ということも、真実を覆うとい意味と、煩悩を覆うという意味の二つの捉え方があるのですね。深い世界を言い当てていますね。 南無阿弥陀仏
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