識転変(vijñāna pari?maヴィジュニャーナ パリナーマ)<o:p></o:p>
識が転変することで、我・法が仮説される。唯識の道理を見出した基礎になる。
転変について、玄奘は能変と所変に分けて翻訳しているが、さらに能変を、因と果にわけて厳密に区別して説明をしています。<o:p></o:p>
第十七頌に「是の諸の識いい転変して、分別たり、所分別たり。此れに由って彼は皆無し。故に一切唯識のみなり。」<o:p></o:p>
『述記』に「分別は、能変の見分なり」と「所分別は、相分の上に執する所の実我・実法の性なり。」と。<o:p></o:p>
見・相二分を護法は依他起性としてとらえている。識が何かに似て現ずることが、識転変、現じているまま、現行しているままが識の内にある。似我・似法であるが、似を実我・実法と計度して迷いが成り立っている。妄執といわれるが、妄執に於て悟りが成り立つ。妄執を縁としてです。実は実体化の問題。実体化は執の問題になります。事実は縁起されているが、私の物差しで固定化しているのが我執・法執であり、すべての経験の上に我・法を立てている。<o:p></o:p>
真宗の教義から伺うと、十八願と二十願の関係になります。(真聖p18)信心を覆っているのが二十願の世界。執の問題が浮き彫りにされていますが、どこまでも信心をつかんで離さないという問題です。二十願の世界が大事な聞法の歩みになります。十八願を立場にすると、無相の立場、スカットさわやかで歩みが止まってしまいます。此れが法執の問題です。二十願の世界は依他起性の世界をつかんで、遍計しているが、十八願によって見出されてきた世界ですから、二十願を立場にしているのは、間違いであったと、恒に相応関係にあるのが転入・転出の課題になります。以上は果能変の意義を顕しています。<o:p></o:p>
因能変については、第十八頌には<o:p></o:p>
「一切種識の是の如く是の如く変ずるに由り、展転(チンデン)する力を以ての故に、彼彼分別生ず。」<o:p></o:p>
種子を因とする、これが因能変、種子生現行の種子、現行は果になります。果能変です。識体が能変。識体転じて二分に似るという所の、見・相二分が所変。識体から見ると、見分は所変、所変である見分が、同じく所変である相分を縁じて認識が起こる、これが果能変の構造になりますが、果を引き出すには因である種子がなければなりません。即ち第八識の中の種子における転変が因能変といわれているのです。<o:p></o:p>
種子生現行 現行熏種子 として因果が相続していくわけですが、熏を熏習・習気(ジッケ)といわれています。習気と言うときは果を表していますし、種子というときは因を表しているのです。因果は同時相続して展転している。種子は熏習によって生・長されたものとして習気といわれている。因能変には「二因の習気」がある、と。<o:p></o:p>
等流習気と異熟習気です。等流習気は名言種子ともいわれています。因になります。因は必ず果を招きますから、業に於て果報を招きます。善悪業果位で異熟といわれていますが、すべての習気は等流習気になり、その中に異熟果を招きますから、異熟習気でもあるわけです。<o:p></o:p>
等流習気は、阿頼耶識が七転識によって転変されたもの。七転識の現行は、必ず第八識に種子として熏習します。熏習され生(ショウ)じます。新たにですね、新熏種子として熏習し、元からあった本有種子を増長させる働きを持って、第八識の中に蔵されて貯蔵されるという構造になります。<o:p></o:p>
異熟習気は、有漏の六識に限ります。六識中の有漏の善悪業の種子によって熏習されます。無記性は除かれますから、第七識の有覆無記性は除かれるわけです。無漏心は解脱心ですから異熟ではありませんから除かれます。<o:p></o:p>
唯識の問題となる立場は「迷・謬」にあります。これは、倶生我執・倶生法執を見出してきたことに起因するところですが、二十願の発見と同じ構造ですね。<o:p></o:p>
「今現に悩み苦しんでいるではないか、どうしてなんだ」<o:p></o:p>
では、どうしたら解決するのか。ここに修道が展開されるのです。聞法です。<o:p></o:p>
次回は果能変について学びます。<o:p></o:p>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます