「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとうーほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す」といわれます。失念は意識の対象に於いて不能明記であると、記憶できずに正念を障えてしまうと言われていましたが、散乱は正念をもてないことから意識の対象に於いて心が散乱するのです。散乱した心をほったらかしにして正定を障えるのです。正定を障えることに於いて悪の知恵の依処となるのですね。仏陀の最後の説法は「自を灯とし、他を灯とすることなかれ。法を灯とし、他を灯とすることなかれ。」自灯明・法灯明と遺言されました。法に由って明らかにされた自己を灯として人生に立ち向かうのが善の方向だと思います。それに反し自我中心に人生を考えるあり方が悪の方向になるのではないでしょうか。正念を障えて失念し、失念することに於いて散乱を招き正定を障えるのですが、そのことにより悪の知恵の依り処となるといわれるのです。
流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」
といわれます。心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱は、あまたの事に心の兎角(とかく)うつりてみだれたるなり」(『ニ巻抄』)
「散乱は別に自体有り。三の分と説けるは。是れ彼の等流なればなり。無慚等の如し。即ち彼に摂むるに非ず。他の相に随って説いて世俗有と名づけたり。」と、散乱と云う煩悩は独立して有ると言われます。三の分とは貪・瞋・癡の事ですが、この中に「散乱は有る」という説を退けるのです。「別に自体有り」と。
散乱の別相について「散乱の別相とは。謂く躁擾(そうにょうー心が落ち着かない、心を落ち着かせない事)なり。」(「躁とは散を謂う。擾とは乱を謂う。倶生の法をして流蕩ならしむ」)軽躁という言葉がありますね。こころが落ち着かずそわそわしているのです。あるいは軽佻浮薄(けいちょうふはくー心がうわついて軽薄であるという意ー軽佻の佻は跳ね上がりで落ち着かない意)ともいわれます。散乱と云う心は独立して働いていると言われているのです。
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