唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(9)

2012-11-08 23:09:48 | 唯識序説

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安慧と護法の解釈の違いは、「似」の解釈の違い、『論』に「遍計所執の二分の見・相に似るが故に似の名を立つ。」という所論について、護法は三分共に依他起としています。即ち能変の識体だけが依他起ではなく、所変の見・相二分もまた依他起として有という立場になります。しかし、安慧は自体分のみが依他起であって、見・相の二分は遍計所執であるとています。遍計所執とは、心の外に実体として有ると執着されたものですから、本来的には無いものです。無いものを有ると執着したものですから、見・相の二分は本来的には存在しないもの、依他起ではない、依他起の自体分が遍計の二分に似る、有るのは自体分のみであるということで、安慧の主張は一分説といわれるのです。
 所変という意味は、識が変化して現れ出たもの、了別するのが識の働きですから、「識の所縁は唯識の所現なり」と云われるのです。そして、識は何を介在として現れるのかという問題があります。それは「マナス」という染汚性なる自己中心性なのです。自分にとって何が得で、何が損となるのかを瞬時に判断して行動を起こすのです。自分という実体が未来永劫壊れることなく存在すると思っている執着が恒に働いていると教えています。
 護法は自証分という、何かを見たという認識を自分が知っていることを、また自分は知っているいう証自証分を立てます。自覚が無限に続くという、肝胆相照らすという言葉がありますが、自証分と証自証分は互いに照らすのです。
 一応ここで終わっておきます。私たちの認識が如何に虚妄分別で成り立っているのかが教えられています。誰のことでもありません、私の心の在り方が指摘されています。
 

 尚、四分義については後日、初能変を述べる時に詳しく記述していきます。


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