私たちの認識活動は、「識体転じて二分に似るなり。」と、自分の心が転変して、見るものと、見られるものとに似て現れる。見られるものという相分は、自分の心の表れである、見分も相分も自分の心の表れであって、「倶に自証に依って起こる」と云われているのですね。自証分を依り所として見分・相分が成り立っているという。識が縁ずるのは、識の中に表された対象を縁ずる、内識のみであって、無境ということ、唯識とは、唯量という意味を持ち、識が外境に似る、その構造が二分であって、唯二という。そして意識は、意識があって、様々なものを縁ずるのではない、一々の意識が二分をもっている、それで種々という。「唯量・唯二・種々」という意義を総合して唯識という。
体が自証分で、用が見分・相分の二分で三分が成り立つのです。
難陀の二分説は「内識転じて外境に似る」、内識である見分が転じて外境の相分に似て現ずるという。
三分は、見・相二分の根底に自証分を見てくるのです。自証とは自覚、自分の心に映じたものを自分が見ているという自覚自証ですね。見分も相分も自証分もすべて自分の心であると見ていくのです。 (つづく)
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます