唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(5)

2012-11-03 23:12:03 | 唯識序説

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 二分を以て、安慧正量部の説を論破するのです。理証・教証をあげて論証しています。
 「若し心・心所、所縁の相無くば、自の所縁の境を縁ずること能わず。或は、一々能く一切を縁ず。自境も余の如く、余も自の如くなるが故に。」
 (もし、心・心所法に所縁の相が無いならば、自己が縁ずる所の境をもつことはないであろう。識と境が混乱するならば、識は一切を縁じてよいことになる。)
 識と境とは必然関係なのですが、識と境が偶然の関係であるなら、何を縁じてもいよいことになってしまいますから、「自境も余の如く、余も自の如くなるが故に」(自境も縁ぜない余の如く、縁ぜない余も自境の如しである。)
 『述記』には「青を縁ずる時の如き、若し心・心所の上に所縁の相貌無きは、正しく起こる時にあたりて、自心所縁の境を縁ずること能わざるべし。」と、因明を以て説明しています。これが宗になり、「所縁の相無しと許すが故に」が因になり、「余の縁ぜざる所の境の如し」が喩になりますね。能縁についても同じことがいえます。能縁と所縁との二つに似て現行するのですね。意識は、見・相二分に似て意識されるということ。
 所縁(対象)は相分・行相(作用)は見分という見方は、
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者の、則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分とは行相と名づく。相と見との所依の自体をば事と名づく。即ち自証分なり。」
 私たちが見ているものは、相分という心の影像、主観によって捉えらえたものを見ていることになります。自分が心の中に捉えた映像を、自分が認識して知るという構造です。これが識の本質になるわけです。この本質を自体分といいます。この自体分が無かったなら、見・相二分は外界の存在になり、外界は実在と見るという錯誤を生じるわけです。自体によって二分が成り立つのですね。自分が自分を知っている、他人は騙せても自分は騙せない、騙したことを自分は知っている、自分は自分から逃れる術はないというのが自体になるわけですね。道理です。自証をもって自体とする、これが道理である。見・相二分の所依が自体である。二分では判然としなかった識の構造が、体は識、用は二分ということで諸法唯識が成り立つのです。    (つづく)


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