唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 心所相応門 (4) 心所について

2012-11-09 23:53:31 | 心の構造について

Caa910vp 「心の事を助成す。心所という名を得たり。画師と資と、作模(さも)し塡彩(てんさい)するが如し。」(『論』第五・二十右)

 (心所は心王の事を助成するので、心所という名がつけられているのである。(画師と弟子の喩え、画師と弟子とが、作模し塡彩するようなのもである。)

  論。助成心事至作模塡彩 述曰。助成心事名心所故。師謂博士。資謂弟子。如師作模畫形況已弟子塡綵*綵於模塡不離模故。如取總相。著綵色時令媚好出。如亦取別相。心・心所法取境亦爾何以知者。」(『述記』第五末・七十三右。大正43・421c) 

 (「述して曰く。心の事を助成するを心所と名づくるが如し。師とは博士を謂う。資とは弟子を謂う。師の模を作り形況を畫き已るときに弟子、采(さい)を塡(うめ)るが如し。模(も)を采(さい)して塡(うめ)るは模に離れざるが故に。総相を取るが如し。采色を著る時、媚好を出さしむるは、亦、別相を取るが如し。)

  • 采ー彩と同字・サイ・とる、いろどり。
  • 資ー弟子・(資助、師資)
  • 塡-テン・うめる・ふさぐ・中にうめこんでいく
  • 模ーかたどる・ひながた・(手本に)似せる。        師資の関係ですね。私事ですが、茶道を習いはじめのころは、師の言われたまま、或は先輩たちの点前を見よう見まねで模倣をするわけです。模倣を繰り返しながら修練を重ね独自の作風を築き上げていくわけです。師と弟子は一枚岩のようなものなのですね。師の教えが総相・そして師の教えを見よう見まねで点前する私の姿を別相というのでしょうか。この喩えは「師がまずひな形を作成し、いろいろな模様をほどこすのを、総相といわれるのです。それを弟子が彩色をほどこすことが別相であると。彩色は師のひな形と離れるものではなく、総相と離れない。つまり別相は総相と別にあるわけではない。別々の相分があるわけではないといっているのだと思います。

 問い、「心と心所との法の境を取ることも亦爾なり。何を以ってか知るとならば」  

 前半は『瑜伽論』巻第三を引用。(1)作意について記された部分を挙げる。(2)触・受について記された部分を挙げる。」(3)想・思について記された部分を挙げる。次に「此れ」という字の指すものを説明する。

 後半は『中辺論』を引用する。

 

 「故に瑜伽に説かく。識は能く事の総相を了別す。作意は此れと所未了との相を了す。即ち諸々の心所の所取の別相なり。」(『論』第五・二十右)

 その為に『瑜伽論』巻三(大正30・291b-21)には、このように説かれている。「識はよく事の総相を了別(対象をそれぞれ区別して知る)する。作意は此れ(総相)と所未了との相(心王の所未了の相ー別相を指す)を了別する。即ち諸々の心所の所取の別相である。

(参考文献)

『瑜伽論』巻三(大正30・291bー21)には

「又識能了別事之總相。即此所未了別所了境相。能了別者説名作意。(識は能く事の総相を了別す。即ち此れの未だ了別せざる所の所了の境の別相をも亦能く了別する者を説いて、作意と名づく。)即此可意不可意倶相違相。由觸了別。即此攝受損害倶相違相。由受了別。(即ち此の可意と不可意と倶相違との相は觸に由って了別す。即ち此の攝受と損害と倶相違との相は受に由って了別す。)即此言説因相。由想了別。(即ち此の言説の因の相は想に由って了別す。)即此邪正倶相違行因相。由思了別。(即ち此れ邪と正と倶相違の行因の相は思に由って了別す。)是故説彼作意等思爲後邊。名心所有法遍一切處一切地一切時一切生。」(是の故に彼の作意等の思を後辺と為るを説いて、心所有法の一切処、一切地、一切時、一切に遍じて生ずと名く。)

と記されています。

 ここは非常に大切な論点です。心王は総相を、心所は総相と亦た別相を取ると云われますが、その中ではっきりとしておかなければならない事柄が「作意と余の心所」との違いなのです。詳しくは『述記』に説かれていることをみることにします。

 「(『瑜伽論』巻第三に、「識は能く事の総相を了別すと説いて、別を取るとはいわず。是れ主なるを以ての故に。若し別相を取るは即ち心所なるが故に。作意は此れと所未了(未だ了せざる所)との相を了すとは、此れと云うは、即ち識が所取の総相なり。作意は此の総相を取り、及び亦、識が所未了の総をも取る。未了の総と云うは、即ち是れ別相なり。即ち余の心所の所取の別相も、皆識の所未了なり。作意の一法は独り能く彼の衆多の別相を取る。「所未了境相」と云うは、是れ別相なるが故に。能く了別する者をば、名づけて作意と為すと云り。・・・・作意は能く心・心所をして境を取らひむる功力勝れたるに由るが故に。・・・」

 

 心・心所は相離れるものではない証拠を引くところです。識は即ち心王ですが、心王は総相(認識対象そのもの・青色なら青色そのもを指す)を認識し、心所である作意は総相と所未了の相(心王が未だ認識していない別相)を認識すると『喩伽論』に説かれているけれども、これは『論』に説く「心於所縁唯取総相。心所於彼亦取別相」の証拠である、と。「作意」については遍行のところで詳しく述べる事にしますが、「心を目覚めさせて対象に働かしめる作用」のことですね「作意の一法は独り能く彼の衆多の別相を取る」と。作意のみが、多数の別相を認識すると説かれています。これは何を意味するのかといいますと、作意が、他の心所すべての別相をも認識しているからこそ(諸々の心所の所取の別相を取る)他の心・心所をしてその境に向かわすことが出来るのである、と。それが「作意は能く心・心所をして境を取らしむる功力勝れたるに由るが故に。」といわれているのです。

 


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