「自下は第二に不可知を解す。二有り。初に不可知を解し、後に問答して弁論す。」(『述記』)
これは初である。
「不可知とは、謂く此れが行相極めて微細なるが故に了知す可きこと難しと云はんとぞ。」(『論』第二・三十二左)
不可知とは何か?と問うています。「知るべからず」(知ることができない)知ることが難い、不可能である、と云っているのです。理由は三つあげられています。一つは本科段にでています。つまり、「此れが行相極めて微細なるが故に了知す可きこと難し」です。もう一つは次科段にでてきますが「所縁の内執受の境も亦微細なるが故に」・「外の器世間も量測り難きが故に」
傍線の、行相と内執受と外器、それが不可知である。行相につきましては、すでに説き終えましたので、ここでは詳論されません。四分という形で心の在り方を考究されていましたが、一言でいうと微細であると云うことになります。
「第一には見分の行相了知すべきこと難し」(『述記』)であります。すべてを知り尽くすことは難である、一部分知ることはできるかもしれませんが、無意識の領域で、すべてを了別することはできないと云っているわけです。対象化された心ではありません。対象化された心は妄想ですから説明はつくわけです。戯論だと。しかし、すべては心から生み出されてくる、その心の世界は厳然として秘密裡なんでしょうね。
種子生現行は、
「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)
予想がつきません。何が起こっても不思議ではない生き方をしているわけです。大事なのは、縁が種子に触れて現行するわけですから、私にできることは、いかなる種子を植え付けるかです。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」 と。煩悩具足の人間が知りえる世界が、「火宅無常の世界」なんですね、そして「ただ念仏のみぞまことにておわします」と頷きをえるのでしょう。
火宅無常の世界は、『正信偈』では「決以疑情為所止」(決するに疑情を以て所止とす)、と。我執でしか生きることができない世界を「火宅」だと、我執を通して我執を知ったわけです。お念仏に触れて初めて知りえた世界ですね。そうしましたら、この世界を作っているのは我執だとわかるわけです。私がこの世界を変現しているんだと、ですね。外器は所縁であるということです。
「ただ念仏のみぞまことにておわします」という種子を植え付けなければなりませんね。そうしますと、無漏の種子が撃発されて「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」我執を依り所とした世界は、むさぼりと怒りしか生み出すことがないと要求してくるのではないでしょうか。聞法と無漏種子の感応道交において頭が下がるのでしょう。
私は苦しんでいる、悩んでいるという視線は、あたかも仏法を求めているように見えますが、内実は自分の思いを通したい、思いが通らないから苦しみ悩んでいるということに、苦しまなければなりませんね。「あんたに私の何がわかるねん」と反発をくらうんでしょうが、自分の殻に閉じこもっていたのでは、何も解決をしないということに、先ず目を開かなければなりません。
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