護法の説を述べています。護法は、第一師が主張するように、無癡の体は慧であるとするのではなく、無癡そのものに体は有ると主張しています。これが正義になります。
その理由が因明という論理学で説明されています。先ず『述記』の所論を伺います。
「 論。有義無癡至善根攝故 述曰。下文有四。一標宗。二引證。三會違。四立理。此初也。此以量破。無癡。非惠別有自性。正對不善之中無明善根攝故。如無貪等 量云。無癡。定別有體。所正對治是不善根故。如無貪瞋 又此離惠實有自性無貪等三善根攝故。如無貪瞋 不言是善十一善根攝。捨等爲過故。」(『述記』第六本下・十五右。大正43・436c)
(「述して曰く。下の文に四有り。一に宗を標し、二に証を引き、三に違を会し、四に理をたつ、此れは初なり。此れは量を以て破す、(1)無癡は慧に非ず、別に自性あるべし。正しく不善の中の無明に対して、善根に摂むるが故に、無貪等の如し。量に云く、(2)無癡は定んで別に体有るべし、正しく対治する所は、是れ不善根なるが故に、無貪瞋の如し。又此れは(3)慧に離れて実に自性有るべし、無貪等の三善根に摂するが故に、無貪瞋の如し。是れ善十一の善根に摂むと言はざることは、捨等を過と為すが故に。」)
『述記』は、三つの立量を以て、『論』本文を解釈しています。
(1) 「無癡は慧に非ず、別に自性あるべし。正しく不善の中の無明に対して、善根に摂むるが故に、無貪等の如し。」
宗 - 無癡は慧ではなく、慧とは別個に、別に自性が有る。
因 - (何故なら無癡は)正しく対治する対象が三不善根の無明であり、無癡は三善根に摂められているものだからである。
喩 - (三善根の)無貪と無瞋と同じである。
(2)と(3)は理によって説明されます。
(2) 「無癡は定んで別に体有るべし、正しく対治する所は、是れ不善根なるが故に、無貪瞋の如し。」
宗 - 無癡には必ず体(自性)が有る。
因 - (何故なら)対治する対象は三不善根だからである。
喩 - (三善根の)無貪と無瞋と同じである。
(3) 「慧に離れて実に自性有るべし、無貪等の三善根に摂するが故に、無貪瞋の如し。」
宗 - 慧に離れて、無癡には自性が有る。
因 - (何故なら)無癡は、無貪・無瞋の三善根に摂められるからである。
喩 - (三善根の)無貪と無瞋と同じである。
以上の理由を以て、無癡は無貪や無瞋と同じように慧とは別に別個の体(自性)をもつものである、と証明しています。この論拠は次の科段で示されます。