唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (25)  小随煩悩 諂 (3) 雑感

2015-06-27 19:01:56 | 第三能変 随煩悩の心所
 
 少し休ませていただきました。前回は「「師友の正しき教誨(きょうけ)に任せざるが故に。」厳しい言葉です。逆に恨みますからね。聞く耳持たんということはこのことです。」で終えています。
 この「聞く耳持たん」ということにつきまして、少し私の愚痴を聞いていただきたいと思います。
 「聞く耳持たない」というのは、聞こえてくる声を聴こうとしない。聴くことを自分が遮断しているということですね。ここはなかなか気づきを得ないのですが、我執が働いています。自分と云う者に固執をしています。砂上の楼閣を一生懸命守ろうとしている愚かさがあるのですが、見えないからわかりません。自分の事は見えないんですね。しかし人のことはよく見えるのです。矛盾をきたすのですが、人には忠告をします。聞いてくれなかった腹をたてます。なぜ俺の忠告を聞かんのや、とね。しかし、人から忠告されると、聞きませんね。冷静に考えたらおかしいのですが、「自分の事は自分が一番知っているから、かまわんとってくれ」という、頑なな自分が居るのですね。
 人のことを云っているのではありませんで、私は忠告を聴かなかったですね。それどころか「貴方の言っていることは100%承知しているから、ほっといてくれ」とうそぶいていました。まあ、聴いておればですね、もう少しましな生活をしてたであろうと思いますがね。ともかくも、僕の放蕩はひどかったですから、みんながなんとか軌道修正させようと努力をしてくださったんです。しかし最後の最後まで(破産に追い込まれるまで)、聞く耳を持ちませんでした。それでもですね、我執と云う鎖ははずれなく、「なんとかなるんや」という炎は消えることは無かったですね。挙句の果てに、家庭崩壊です。そうしますと、責任の所在を他に転嫁するんですね。「俺のいうようにしとけば、ここまでひどくならんかったんや」と言って、家庭崩壊の責任はおまえにあると言って、自己正当化を図っていました。自己正当化は、闇を作ります。廻りが見えないんです。見えているつもりではいます。おおよその見当はついているんですが、歯車の回転が逆に回っていることがわかりませんから、なんとかしなければと焦って、ふんぎりというか、最後の決断が下せないでいるのです。幕引きが出来ない、「もう少し頑張れば必ず好転する」と焦れば焦るほど、底なし沼に足を踏みいれているようなものでした。
 そうしますとね、自分が蒔いた種なんですが、ストレスがたまります。そしたら憂さ晴らしですわ。夜の街にでていくんですね。そんな日々が続きましたね。しかし、心の底から遊ぶことは出来ないのです。明日の事を考えるとむねが張り裂けるくらい苦しいのです、でもそれを忘れようとして酒を煽り遊びほうけるのです。奈落の底で這いずっているような姿です。でもここまできますと手遅れです。手遅れでも、「ここまで来た責任は俺ではない、俺の責任ではないから面白くないんだ、お前が悪い、俺は真面目にやってきたんだ。どっから歯車が狂い出したのか見当もつかんが、とにかく俺は一生懸命家庭の為に働いたんや。」これが自己正当化の理由です。
 世間の人はこんな状況を見て、たくさんアドバイスをしてくれました。しかし、何度も言いますが、「あんたら俺のどこまで知っとんのや。なにも知らんと説教せんといてや。聞く耳持たんとはこのことです。今思えばですが、この時の声は如来の叫びだったんですね。僕の「なんとかしてくれ」という声を如来は察知して、意識の底から、人を介して「あんたの求めていることはこれや」と叫び続けていたんですね。
    「十方恒沙の諸仏は / 極難信ののりをとき / 五濁悪世のためにとて / 証誠護念せしめたり」(『浄土和讃』弥陀経意)
 五濁悪世はどっかにあるわけではありませんね。自分が作りだした世界です。正法の時であれ、我執が作りだす世界は五濁悪世です。そんな私の為に、開かれた世界を極難信と説きですね、易行難信です。易行は法、難信は私の問題です。易行と難信、常に格闘して、聞く耳持たなかったのですね。我執です。
 聞く耳持たん背景に我執が動いていることは確かですが、我執に気づくことは容易ではありません。容易ではありませんから、易行でありながら難信なんですね。しかし、そんなことには全く気づくことも無く傷心のどん底から、子供の産声を聞いたんです。聞こえたんです。聞こえると同時に世界が開かれました。亡き母の声も聞こえてきました。まさに証誠護念です。小さい頃、おじいちゃん、おばあちゃんが私の手を引いてお寺に連れて行ってくれたことがよみがえり、「なんで祖父母はお寺参りしていたんやろ」という問いと、仏青活動の中で、いろんな先生のお話を聞かせていただいていたことが点となって、私には一つの方向性を与えてくれました。それが今日までつづいていることに成る訳です。自分には聞く耳持たなかったのが人生の大半をしめましたが、そこから「何故聞くことができないのか」を課題として聞法しているところです。
 随煩悩のところで感じたまま綴ってみました。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿