唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(17)

2014-12-04 22:10:06 | 初能変 第二 所縁行相門
 自証分と証自証分の相互互換性を明らかにする中で、見分と自証分が相互互換性が無いのはどうしてか、という問いが出されて、そこに三量分別に由って見分は「是れ第三の果には応ぜず」と答えられています。自証分は現量であるが、見分は非量にも摂められるからである、と。
 「此に由って見分は第三を証せず。自体を証するは必ず現量なるが故に。」(『論』第二・二十八右)
 見分は現量・比量・非量の三量に通じている。正しくものを見ることも出来るが、時には間違ってものを考えることがある。ほとんど、間違ってますね、自分を柱にしていますから、その柱を軸に見解が生まれてきます。我見と云われるものですが、公平性がないですね。それを依り処にしている限り、正しくものを見、判断することはありません。それを非量と現しています。ですから、見分が自証分を証明することは有り得ないのです。
 「識体転じて」と云われていましたが、識体が転じて相分・見分という相を取るということでした。識体が二分を証明しているということになりますね。
 自覚という言葉があります。真宗で大事にされている言葉です。深信も自覚だといわれます。自覚とは自らが自らに覚めるということなのですが、それは現量でなければならないということなのです。ここに自覚の厳密さが示されます。そこに私的な欲がはいると、自覚にはならないで、功利心となってしまうのですね。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」(『歎異抄』)は「報土の真因決定する時剋の極促を光闡せるなり」(『行巻」)と教えて下さっていますが、そこには一点の染汚性はありませんね。「「即」の言は、願力を聞くに由って」と、即得往生=摂取不捨は、信心決定という如来の大悲を一身にうけた「時」に開示されることですが、唯識は現量と押さえています。
 自体を証するとは、自分で自分を証明するということなのですが、証明するには必ず現量でなければならないと云っています。そこに非量が入っては駄目だといっているんですね。これは第七末那識とも関係することですが、自分で自分を正しく見ることはできますかね。末那識も自覚の深さなんですね。見れない、というところに仏法を聞くということがあるんでしょう。「聞」がなかったなら、「自分の事は自分が一番よく知っている」ということになるんでしょう。そこには必ず己を立てることが起こってきます。己を立てるにはどうしたらいいのかしか考えていません。これが非量だといっているんです。

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