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老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

橋下市長に関する週刊朝日記事考!(2)~橋下批判~

2012-10-23 17:19:09 | 民主主義・人権
前の投稿では、橋下擁護のように受け取られたかも知れませんが、私自身は、橋下市長率いる【維新の会】の政策、行動、発言には明確に反対です。というより、維新の会は、ファッシズムそのものだと認識しています。

橋下市長誕生以前より、彼に対する厳しい批判を繰り返している広原盛明氏(都市計画・まちづくり研究者)は、市長選で橋下氏を支持した中間層を「毒をもって毒を制す」という視点で分析しています。

・・・
「中高年ミドルクラスの橋下投票行動の直接的契機になったのは、解同の利権漁りや市職員の不祥事をいっこうに是正できない(しようとしない)「大阪市役所一家=市役所ムラ」への激しい怒りだった。大阪府立高校ОBである私は、かねてより数多くの同窓生からこの種の不満や憤慨を嫌というほど聞かされてきた。彼らの多くは大阪経済の中核を担う中小企業の経営者であり、大阪の政治動向を左右する自営層だ。また、その大半が自民党支持者でもある。

解同批判の急先鋒が共産党(および支持者)であることは誰でも知っているが、「自営層=真面目な自民党支持者」がそれに次ぐ批判グループであることは案外知られていない。市役所との「コネ」(癒着)だけで系企業に仕事を取られて自分たちのところへは回ってこない、仕事を取ろうとすれば系企業とジョイントを組まなければ仕事をやらないと市役所から強要される、ジョイントを組めばろくに仕事もしないで法外な下請代金を請求される(ぼられる)、こんな愚痴(ぼやき)が飲み会では山ほど出てくるのである。

橋下氏が大阪市長選挙に立候補したとき、私の友人たちのほとんどは「毒(橋下)を以て毒(解同)を制す」だとして橋下候補を応援した。また、「比叡山(市役所ムラ)を焼き討ちするには信長(橋下)しかない」とも冗談めかして言っていた。松谷氏が分析した中高年ミドルクラスの橋下支持は、このようなローカルの“大阪事情”に裏打ちされていたのではないかと私は推察している。

同じ「ミドルクラス」(中間層)と言っても、大阪では東京のように新中間層のホワイトカラー(専門・管理職)の比重がそれほど高くない。むしろその主流は、旧中間層に属する中小企業経営者(自営層)である。この人たちが橋下投票行動に走ったのは、新自由主義的イデオロギーからでもなければ、新保守主義的志向からでもない。「額に汗して働かなければまともな人間にはなれない」という真面目な職業観・人生観を持った正真正銘の保守層だったからこそ、市政を食い物にする解同が許せなかっただけのことなのだ。」
・・・・
リベラル21 http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2153.html

実は、この種の批判は、解放同盟に対する批判の大変大きな部分を占めているのです。大阪ほどではないにせよ、多かれ少なかれ同様の思いを抱いている人は少なくないはずです。それでも、同和対策措置法が存続している間は、批判の声は大きくなりませんでしたが、法が切れてからは、かなり顕在化してきました。

わたしの経験から語りますと、全国同和教育研究会などに出席している時、同和教育の先進地区として大阪などの学校から報告される取り組み・研究などにある種の違和感を禁じえませんでした。これは【解放教育】ではなくて、一種の【解放区】教育ではないのか、という疑問でした。

わたしたち教師は公教育を担う一員です。という事は、地区の子供たちにもそうでない地区の子供たちにも平等に責任を持たなければなりません。平たく言うと、どの子どもたちの目からも、「先生はわたしたちに差別なく平等に接してくれている」と感じてもらわなくてはなりません。どの子どもの希望・夢にも、その実現のために平等に助力をしなければなりません。たとえそれが人を蹴落としても自分だけが偉くなりたいがために良い学校に進学したいというエゴ丸出しの希望であってもです。

大阪などの先進校の発表は、そのエゴを否定する事から出発しているように思えてならなかったのです。理論的に突き詰めれば、正しいのかも知れませんが、それは余りに現実無視ではないかと思えてならなかったのです。なぜなら、日本社会は、就職・会社での昇進・給料・結婚など全ての事柄で、学歴優先の現実が牢固として存在しています。現在でもそれは存在しています。それを間違いだと否定して生きる、というのは、他者が強制する事ではなく、自分自身が決断し、自分自身の覚悟でなされるべきだと考えていたからです。

教師ができる事は、子供たちに自らの「差別心」をのぞきこませ、その差別心のもたらす様々な行為(いじめなどが代表)の影響(自殺などの現実的なものや歴史的なもの)を徹底的に考えさせる事だけだと考えていました。そこから、子供たちが自分自身の生き方、行動、などを考える契機になれば、もって瞑すべきだと考えていたからです。

だから、わたしは、受験教育も熱心に行いました。受験教育の功罪は、大人社会が決定すべき事で、子供自身に賛成・反対を含めた大人の価値観を押し付けるべきではないと考えたからです。受験競争は現実であり、受験教育が良いとか悪いとかを決めるのは子供自身であり、教師や学校が決める事ではない。これが公教育の役割だと考えていました。私立学校の場合は別です。それぞれの学校が、それぞれの教育理念に基づいて、教育すれば良いのです。それが厭なら、その学校を選ばなければ良いのですから。

わたしの教育理念から見れば、大阪などの先進地区とされた実践・研究は、あまりにも過激ではないかと思えてならなかったのです。これでは、同和対策措置法が終わった時の反動が怖いな、というのが正直な感想でした。この問題に関しては、地区の解放同盟の幹部とも何度か論争しました。

わたしの意見は、同盟の運動は、あくまで差別はなくさなければならないという【理念闘争】に重点をおくべきであり、間違っても【物とり闘争】に傾斜しすぎては駄目だというものでした。たしかに【物とり闘争】は、多くのの人たちに生きる希望を与えました。の人たちには、物が決定的に欠落していたからです。その意味では解放同盟の活動は、高く評価されなければならないと思いますが、その活動は、本当の意味での崇高な理念に支えられていなければ、いつの日かただの【物とり闘争】に堕してしまう危険性があります。日本の労働運動の現状を見れば、この事は理解されると思います。同時に、【物とり競争】に傾斜しすぎると、その運動に便乗し、利用する人間が現れます。これが、目に余ると、当然ながら、【物とり】の恩恵に預かれなかった人間の恨みを買います。これが新たな差別を生みだす契機になります。冒頭で紹介した大阪の事例がその典型です。

橋下市長は、自分自身の出自を恨んでいるというより「憎んでいる」と思えてなりません。今回の問題に対する彼の過剰とも思える反発は、彼の骨がらみの出自に対する【憎悪】だと思います。それだけ、彼の受けた差別の現実が苛酷だったという事なのでしょう。優秀であればあるほど、ナイーブであればあるほど、彼の受けた心の傷は深かった、と思います。だからこそ彼はのし上がったのでしょう。この道程は生半可のものではなかったはずです。この過程で、橋下市長の特異な人格が形成されたのだと思います。

ここまでの個人としての橋下市長の思いは、よく理解できます。しかし、現在の彼は大阪市長であり、【日本維新の会】の指導者という【公人】です。彼の言動は、大阪市民という視点と有権者としての国民という視点で判断されなければなりません。

【同和対策審議会答申】の言葉を借りれば、「経済的・社会的・文化的低位の状態におかれ、現代社会においても、なお著しく基本的人権を阻害され、とくに近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保証されていない」とされた集団から、彼は自分自身の能力と才覚と覚悟でそれを克服した人間です。その意味では、橋下徹という人間は高く評価されるべきだと思います。

しかし、彼がその過程で身に付けた人間観、人生観、それに基づいて提示された政治理念・政策・政治手法などには多くの疑問符が付きます。特に、教育に対する介入は、目に余るものがあります。先に紹介した広原氏の言を借りれば以下のようになります。

・・・
「当選後の橋下市長の行動は、見ての通り“やりたい放題”である。しかし「毒を以て毒を制する」ことを期待したこれらに人たちには、解同や(解同と癒着関係にある)市労連と真面目な公務員組合との区別がつかない。だから、教員・職員に対する強権的な思想統制も政治行動の規制も「いい気味だ」ということになる。橋下人気がなかなか衰えない理由がここにあるといわなければならない。」
・・・
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2153.html

わたしは、橋下市長が、本当の意味で【差別】を解消しようという王道を歩まなかった事が、上記のような危険な道程を歩み始めたといって過言ではないと考えています。真の意味での「差別」の解消は、一人一人が自らの心の中の【差別心】を克服しなければ、なしえません。これは、人間という生き物を理性で統御しなければなしえない事で、言葉の真の意味での【見果てぬ夢】だと思います。

この不可能とも思える命題に挑戦したのが、【解放運動】であり、【人の世に熱あれ、人間に光りあれ。】と高らかに謳いあげたの宣言であります。

http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/siryou/kiso/suiheisya_sengen.html

戦前の厳しい差別の現状に耐え、差別の克服に人生を賭けた解放運動の先人たちは、最後まで人間というものの崇高さを信じていたのです。だからこそ、【人間に光あれ】という言葉が人々の心を打ったのです。

橋下市長の大向こう受けを狙った政策は、広原氏が指摘するように、人間の劣情(いい気味だなど)に訴えたものが多い、という事は、彼は標的にされた人々を切り捨てる事を是認しているのです。これは事情が変われば、今度は、橋下氏を支持した連中が、標的にされるという事を意味します。この恨みの連鎖(劣情による報復の連鎖)の政治は、市民や国民にとって決して良い結果を招きません。それどころか、その修復には、十年以上の歳月と膨大なコストがかかります。小泉改革の後遺症がますます深刻になっている日本の現状が、その事の危険性を物語っています。

わたしから言わせれば、橋下市長は解放運動の原点に立ち返り、自らの出自に対する【憎悪】から脱却し、【人間に光あれ】と謳いあげた先人たちの深い人間に対する信頼を思い起こすべきだと考えます。そこから考えれば、現在の自らの理念・政策・言動全ての欠点が見えてくるはずです。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水
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橋下市長に関する週刊朝日記事考!

2012-10-23 04:41:25 | 民主主義・人権
パンドラさんが書いておられた橋下知事に対する週刊朝日の記事を少し視点を変えて見てみたいと思います。

山口北海道大学教授の意見は、いわゆる良心的知識人の意見としてはその通りだろうと思います。彼の意見は、これまでの日本の言論界の同和問題に対する多数派意見でしょう。

わたしは、佐野氏の同和問題の認識は、関東の人と関西の人との同和問題に関する認識の温度差に起因するところが大きいと感じました。

1965年に「同和問題対策審議会答申」が出され、同和問題に対する国の姿勢が明確にされました。
〖前文〗
「いうまでもなく同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権に関する問題である。したがって、審議会はこれを未解決に放置することは断じて許されないことであり、その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題であるとの認識にたって対策の探求に努力した・・・(後略)

【同和問題の本質】
「いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的低位の状態におかれ、現代社会においても、なお著しく基本的人権を阻害され、とくに近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保証されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である・・(後略)」

この答申に示された理念は、全国民が共有している過去の歴史に対する真摯な反省があります。「忘れされる過去」としての歴史ではなく、客観的な「歴史」の総括と【教訓の歴史化】の姿勢があります。

誤解を恐れずに言えば、ドイツが【ナチスを生んだ歴史】に対して真正面から立ち向かい、二度と【ナチス】を生み出さないという決意を世界に示した歴史認識と共通する姿勢があります。

日本の戦前の歴史に対する向き合い方と比べれば、ドイツの歴史に対する向き合い方との相違は明らかです。そのような日本の歴史に対する姿勢と「同和問題対策審議会」の答申の歴史に向き合う姿勢とは、天と地ほどの違いがあります。

今回の佐野氏のルポは、「地区の特定」など同和問題に代表される「差別問題」に対する認識の浅さ、甘さが目に余ります。

教師時代、地区を抱えた学校に何年も勤務した経験から言いますと、あそこは「地区」だという囁き、噂ほど、その地区に住んでいる住民を傷つけるものはありません。結婚、就職など人生の節目節目で出てくる【差別】の多くは、この噂、囁きに起因しています。結婚話が壊れた、就職試験で落とされた、などという話は枚挙にいとまがありません。

このようないわれのない差別に傷つき、人生に絶望した子供たちを何人も何人も見てきたわたしには、今回の佐野氏のルポは断じて容認できません。

教師にとって、「同和教育」とは、このようないわれのない「差別」で傷つき、悩み、苦しんでいる子供たちを、如何にして自らの存在をかけがえのない存在として認識させ、このような差別と闘い、それに打ち克って行く人間に育てるか、という教育です。同時に【人権】とはどのようなものか、をただ机上の知識ではなく、日常の肌に沁みついた生きた感覚にまで高めるためにどのように育てるかを考える教育でもあります。

そのためには、地区に出かけ、住民と膝を交えて話をし、差別の現実を肌で感じ、差別に対する怒りを共有しなければなりません。これは生半可の覚悟でできる事ではありません。上から目線の姿勢では決してできないのです。教師にとっては、【自己変革】の洗礼を受ける旅なのです。子供とともに、自分自身を変えなければ、「同和教育」などただのお題目になってしまうのです。

佐野氏のルポには、このような差別に対する認識がありません。たしかに、橋下市長の言動は、目に余るものがあります。彼の政治手法、彼の政治理念には眉をひそめざるを得ないのも事実でしょう。通常の作家の手法からすれば、彼の家族や地域を探る事が、彼の政治姿勢・政治理念・生き方・手法の根源を探る事につながる可能性は否定できないかもしれません。

ところが、【地区】と特定された地域には、現在も多くの住民が住んでいるのです。佐野氏の記事に触発されて、新たな差別が生まれるかも知れません。この人たちの苦しみ・悲しみに佐野氏は、どのように答えるのでしょう。どのような責任をとるのでしょう。少しでも差別に苦しみ、差別に泣いた人々の気持ちを知っていたら、とても地区を特定して書くなどということができるはずがありません。

最初に関東と関西の人々の差別に対する温度差と書きました。実は、【地区】が多く存在するのは、西日本で、東日本は少ないのです。先に書いた【同和教育】などは、西日本の地区を抱えている学校では、常識的な事ですが、東日本では常識ではありません。佐野眞一氏の生まれは東京葛飾。彼が橋下市長に対して使った手法を援用すれば、彼の中に地区の差別の現実が身に沁みていなかった、という事なのだと思います。

わたしから言わせれば、佐野氏は、いわれのない差別の現実の悲惨さ、苦悩を勉強しなおして、もう一度橋下市長の批判を行うべきだと思います。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水
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